錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

寝ないと、つか寝て仕事しないとヤバ、なのに寝れねー、こんなこと書いてる場合じゃねー

花田清輝

柄谷行人

加藤典洋

 


そこそこアテにしてる人。

加藤さんはそれほどフォローしてないかも。

(今回も?長いです、文章。

 あー、、オチも梨。)

 

 

 

敗戦後論(それにまつわる論争?)のことが最近、改めて気になる。

 


「個人など犬に食われろ」が花田さんから主に元気をいただいた私の印象。原典に照らしてないし、かなり違うかも。それでも花田はけっこう読んだ。いまは亡き(いるよ!)辻本さん編集のあの6でもない全集も買ったし読んだし(あれ、全集ではないです、花田公認の全集かもだけど、けっこう載せてないもの多い、でも安かったし、優れもの!)筑摩だったかなあ、なぜだかわからぬけど花田が流行ってたとき文庫化されてるのはほとんど持ってるし、つか、その何本かは何度も読んでる。ま、なににせよ、何度も読む・見るが私の習性(カラマーゾフも新訳が出てから、昔の含め、何度読んだことか!つまり好きなだけなんだけど)なんだけど。

 


なんたけど、の繰り返し。

芸がない。

 


置いといて、、、個人(の思い?)など犬に食われろ、、路線で私自身はやってきて、、それはつまり「反芸術=前衛」路線なんだけど、、言うまでもなく、それは誰からも、、、、

 


でもま、前衛いうなら反芸術しかないし

芸術=見せものをやるなら

(たぶんここがワタシ間違ってる!)

少なくとも商売でやってないなら

この感覚がないなら意味ないだろ!と。

(だからワタシ間違ってる。)

 


とはいえ、かなり前に真面目に

「学芸会の魅力」(素人の、、)

という文章を書いてて、、

(どっかにあるかなあ)

 


鶴見さんも当時(80年代)

そんなこと言ってて

思想の科学

加藤さんはそこの出で、、、

 


あー、

まあいいや、

このままアップすることはないだろうし

いままでも、もっと怪しいハードなの

書いて消してきたし

 


でも、、今回はこのまま

アップしちゃおうかなあ、、、

 


すでに自棄だし

作業モードで疲れてて

これからもまともなの

(これまでも、ま、ないんだけど)

アップできそうもないし。

 


話を戻そう。

 


「犬に食われろ」(間違ってるかも)はよい認識。20年前も(もっと前からか?)面倒起こしたし、現在でも面倒を起こしつつあるけれど(幸か不幸か、20年前より私が軟弱になっているけど)、本心でそう思う。

個人など犬に食われろ。

 


花田自身がそう言いつつ、現実ではそうではなかったように思うし、自身を大切にしない人間がどうして他人を大切にできる!、、、こういうのは怪しいんだけどなあ、、加藤典洋の議論はまあ、ここから、、「敗戦」議論は核心をつけてないんだけど。当時もいまも、そう思う。柄谷行人の(少なくとも当時の)発言は加藤よりも世界的現実性を持っていたと思うけれど。(あ、あと「るろうに剣心」からコレを私は学んだ!)

 


おそらく両者とも、天皇制・昭和,ヒロヒト・戦争責任がらみで思考が前後してたかと。「アメリカの影」から「悪」がらみで考え続けた加藤は言うまでもなく江藤流れで、そう言うなら、柄谷も(吉本との間でウロウロしてたけど)江藤流れだったんだから。少なくとも、ある部分は。

 


なんの話だ?

 


ま、そんなこんなで「芸術と運動」「運動と芸術」でグズグス言いながら、うまくいかず(でも文壇・論壇的には、結果的にうまくいった)花田の「犬に食われろ」をいまでも信奉したまま、新小岩ザザという芸術とも運動とも言えぬ場を一生懸命やったうえ「終わり宣告・解放」されたいま、最後の足掻きをしてて、あいも変わらぬ役にも立たぬ苦悩・苦闘をしてて、、でも残された時間を、、、

 


、、、これは宣伝、なのか?

 


花田が武田信玄のオヤジを書いたのと、「俳優修行」(だったかな)の名前で書いたのがおもしろい。あとのは(前のはマルクスブリュメールをおそらく意識してる)スタニフスラフスキーアンチ話で、でも書いてるのはひたすら江戸歌舞伎の話で、、を最近よく思い出す。どっか奥にあるはずだけど、、本棚ないので、ロクデモナイ部屋の片隅か、見つからない。

 


そこにホント嫌みなんだけど、花田のおそらく本心として、、(初代?)團十郎だったかなあ、とんぼ返りの話を出してくる。いまは権威・偉そうだけど、、初代は「なんの芸もない、地位もない小僧が、ちょい役でしか出れないときに、意味もない、イキガッタこと=とんぼ返りをして目立とうとして、、、みたいな話と記憶。(けっこう違ってるかも。)

 


言うまでもなく、うとまれるし、白い目で、、でも人気でると見る目が変わり、でもすぐ飽きられて(サーカスの例も出してたような気がする)新ネタやろうとしても、、、まあ、でもどんどん加速していって(オースターにも同じような話あったなあ)それでも、どんどん危険なほうに(階段落ちも同じですね)とにかく、、、その場に「自らを投企する」のが(いかなるときでも)俳優の務めだと。スタニフスラフスキーの奥義・言いたいことはそれなんだと。ま、そこには書いてある。アホな物言いに呆れたというか、実は関心したわけなんですが。でもそれはソ連の中央集権化に反対し、国内では新日本文学という雑誌媒体で隠れ共産党(かつての、ですよ)として、一時期は編集者として活躍しつつ、それでも当時の共産党からは異端視され、、のなかでの韜晦的文章でしたから。

 


それで数年後には吉本との論争で「口ばっか」みたいに負け話になるわけですが、いや、いま読んでも(私が読んだのは80年代後半から90年代頭ですが)いやいや、読むに値する。というか、私は元気をもらった。

 


話がまだるっこしいですけど、、、

 


今回、江戸浄瑠璃の話を(なにをトチ狂ったのか)やろうとしてて、、なにもかも素人な我々が(着物きたことないし、まソレは私なんですが、、かつ端唄とか浄瑠璃をモドキでやるなんて言うまでもなくオコガマシイ!んですが)ま、それこそが芸術の本道!

 


ダメダメを死ぬ気でやってみようかと!!

最後だし!!!

 


みたいな気分なので、

というか、それくらいでいかないと、、

との思いを、深夜に改めて思ったので、、、

 


つーか、

「死ぬ気でやってみる」

、、それが大変なのよ、、

つーか、ソンナノできないのよ、の話。

 


(うまくまとまらなかったようで!)

(最後まで読んでくれた方、オチなくて、、)