錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

フルメタル、ジャケット?

 

果たして、私は「フルメタルジャケット」(装備?準備、万端)なのか?

 

自分ごととして、いろいろ見たほうがいい。つか、見なければならない。

 

聖書でないが、罪をを犯さずに済んだ人間は幸い(タマタマ)なんだから。

 

 

だから私は僧職になれないわけだけど、、

、、死んだほうがよいと思う、誰が?

 

(基本生き死にメデタイは置いといて)

(置いといてないか、、)

ヒューマン・ステイン

「ヒューマン・ステイン」(フィリップ・ロス)という小説がある。「白いカラス」というタイトルで映画にもなっている。映画は未見。黒人の青年が人種を偽り、捏造して、ユダヤ人(白人)として生きる最終盤の段階で(60手前くらいのころに)、黒人差別をした人間として、さらに若く貧しい障害を持つ女性をたぶらかす存在として社会からパージされる、、、そういう話。

 


彼は育った家族と縁を切り、妻となる女性を騙し、子どもの肌の色を恐れ、なんとかそれを乗り切る。才能でクリアしてきたゲームの最終局面で、彼は失敗する。

 


文字が読めぬ者として肉体労働に勤しむ女、彼女も嘘をついている。ベトナム帰りで彼女を虐待する元・夫。彼は国家に(世界に)騙された意識しかない。ベトナムでは殺しが価値、帰ってみると、、、。

 


彼の葬式にこっそり現れる黒人の妹、現れない黒人解放運動に邁進する兄、子どもたちは人種差別者として死んだ(そして若く低学歴で貧しい女性をたぶらかしたあげく死んだ)父に弔意を示さない。

 


今日、荻上チキさんのラジオを聞いた。特集はトランスジェンダー。もっともだ、の思いともに、なぜだが湧き出る違和感。なんなんだ、これは。

 


小説の世界から30年近く離れている現在。土地も遠く離れている。環境も状況も、なにもかも違う。そしてもちろん小説は(ある意味で小賢しい)作意をもって書かれている。さまざまな要素をぶち込むことによる破綻・混乱も、あえて意識されている。現実の局面とはまったく別もの。

 


生きづらさとはなんだろう。

幸福とは、生きる喜びとは、なんだろう。

 

時間は均一に流れない。

時間というのは均一に流れないのだと改めて。


暑さに頭をやられ、山の日もお盆も失念して銭稼ぎに時間を費やす日々を終えた先週土曜、ようやくライブハウスに行くことができた。まずは入谷なってるハウスでの即興、3本やって、頭はすでにクラクラ。阿佐ヶ谷イエロービジョンに行く前に鶯谷駅前で数人と居酒屋、移動の段階で暑さに負け、食べないで飲むからさらに加速するクラクラ。盛り上がるなか時計を見て慌てて移動して阿佐ヶ谷、林栄一・ゴーレム佐藤の即興、後半の参加タイムに参加。まあ充実した1日。食べてないしあまりのクラクラに飲みにいくのを断念して帰路につくと、近親の危篤の連絡、そのまま病院へ、そしてさらにご自宅へ。数時間仮眠し、雨上がりの早朝に帰宅、待機して、昼前に警察へ。そのまま移動し、さらに移動して、気づくとざんざんぶりの雨の夜。ようやく帰宅すると、ちょうど阿佐ヶ谷を出て丸一日経っていた。


時間は均一に流れない。


日曜を含め、行けたら行こうとしていたものはすべて断念。人は死ぬし生まれるし、そのどちらも喜ばしい。それが私の基本姿勢だけど、個別場面ではそう振る舞えない場合もある。月曜から誰とも接しない3日間。日曜が通夜であることを含め、流動的。いろいろ行きたいところもあるがどうなるか。


そういえば山の日に荒川の花火を遠くからチラ見したんだった。もはや遠い日。

死ぬのはいつも他人ばかり。