錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

重松と川本、とオースター。

「エイジ」読了。
作家は同年代。
ラジオでも喋ってる。
それを聞くと「オヤジ」。
ま、俺もオヤジなんだよな。


現実を「希望」としてとらえるか、「絶望」としてとらえるか。
というより、どちらとして「表象」するか。


あきれる(?)話だけど、よくアニメを見る。
それも、すでに知ってる話。今回は「るろうに剣心」。
さて、重松清と「川本真琴」は似ている。
少なくとも「にぶんのいち」は。
少なくとも、希望として現実をとらえようとしている点において。
そして少なくとも、その希望がつらさと、どうしようもなさを帯びていることを認識していることにおいて。
つまり、泣ける。
けれど、よくできすぎている。
(これはすなわち紋切型=「物語」の話。ったく、ちっとも進歩なんかしてやしない。)


われわれの芝居、「NIP ON YEN」が同構造であることはたしか。
浪花節の密度(精緻さ)にちがいはあっても。
そこを精緻にできない俺はただのあまったれか?


「夜の2時のなんたらを知らない人間に、うんたら、、、と言った哲学者がいるけれど」と書いた小説家がいる。
暗さには確かにどうしようもなさ=リアルがある。
同時に、暗さには「逃げ」の余地がある。


重松と川本に無理を感じるのは俺だけではない、はず。
(とはいえ、なんだかんだいっても、ギターがかき鳴らされるのが聞こえてきて、タイトルロールは見あたらず、歌のラストになってようやくタイトルが浮かび上がり、のち、キーボードがさんざめく、、、アレが傑作なのはまちがいない。)


「泣ける」ということは、価値があることだ。
そこで救われることはたくさんあるのだから。
いうまでもなく、わかったふり、シニカルぶり、よりよっぽどグッとくる。


「偶然の音楽」を再読しはじめよう。


(殺人事件報道を見ると標本化しているように見え、偽造建築話を揉み消そうとする政府・自民党公明党の態度には恐怖しか覚えない。それを許しているのは、ほかならぬわれわれだということさえ忘れそうになる。政治的にふるまうことの重要性を「理念」としては実感する。それが身体に染みてこないのが、俺の、そして、われわれの実情。けど、これ、しっぺ返しがないわけがない。小僧のプレゼントを見にデパートに行ってめまい。)