錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

TBS連ドラ「白夜行」を中心に。

やっぱ、日記つけるのってつらい。
いままで続いたことないもんなー。
今回はこんなに続いてるだけでも奇跡。
はー。


さて、きのうはスポーツクラブでめったにやらないことをやった。
「めったにやらないこと」は身体だけではなく頭も使う。
でも、頭を使ってる段階(身体はおそるおそる)だと、どうしてもダメ。
動けてない。
その段階でも「それなりに」がむばっているのだけど、ダメ。
頭使わなくてもいい状態になって「あー、さっきのは動けてなかったんだなー」とわかる。
芝居もおんなじ。
台詞を覚えてないうち、やってることを考えているうちは話にならない、そういうこと。


でも、そこからが勝負で、そこからが、、、なんだけど、それを「わかる」のはむつかしい。
「わかる」というのは言うまでもなく「頭」でなく「身体」でわかること。
すなわち、細胞が活性化して「視野」が広がること。
それってホントわかんないもんなんだと、実感。
、、、その意味で芝居・演劇は非常に有用なものだ、と再実感。
(芝居でも一生懸命やってんのはわかるけど、まー、それなりなんだけど、心には響かないことはホントによくある。)


きのうの話の続き。
これがきょうの日記の本編。


白夜行」を見る。テレビドラマ。
すばらしい。
連ドラで「大河ドラマ」なのだけれど、初回のきのうは子ども時代がほとんど。
つまり、子役がほぼ2時間踏ん張った。
感動。特に女の子。
きょう、ネットをチェックしたら、女の子へは賞賛の嵐だった。
無理もない。
(ただ、俺が知らなかっただけですでにそれなりに「有名な」女の子だったみたいだけど。)
相方の男の子もグッド。
でも、女の子。
「うまい」のがよいことではないことを改めて身に染みて思う。
ネットでいいことが書いてあったので引用したいくらい。(しないけど。)
なに言ってるかわからなくとも、イントネーションなどめちゃくちゃでも、息継ぎバラパラでも、顔がひしゃげてても、、、本当にグッとくるものはグッとくる。「じじいの死ぬ間際の一言こそ」と何度も言ってる俺なのに(「実存」「自分事」「一回性」「事件」「自分でも思わぬけれど不可避なこと」)、やはり理念は理念、言ってるだけのことは言ってるだけのこと。すぐに形骸化する。
彼女には理念でないそれ=生きざまがあった、、、。
「やられている」(やらざるをえないこと)ことは美しい。し、かなしい。
圧巻。


話がどうこうじゃない。周りとのバランスがどうこうじゃない。
ただ、周りのことを気遣わざるをえず、とらざるをえない、どうしようもない仕草(その結果については自分では「善悪」はつけられない)だけが心を打つ。


なんだ、「罪と罰」じゃねーか。
気付くのが遅すぎる。
罪と罰」はあの段階でも新しくなんかないし、いまでも古くなんかない、と、ついこないだ思い返したばかりじゃねーか、、、。
はー。


昨夜のドラマとも「罪と罰」とも関わりなく、とはいえ、同様のどうしようもなさを繰り返さざるえないことにおいて、われわれの演劇もある。



さて、きょうのことも軽く、、、。
仕事がらみの電話がありそうでなくて、ちよっとうれしいやら、不安やら。
金曜はパワー・筋トレ系のものにチャレンジすることが多く、参加するたびに疲れるけど得心する。
こーゆーの、やらなきゃね、、、。
でも、腹筋つらいー。


そうそう、夜にはオダギリジョーの「時効刑事」を見たのだった。