錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

とりあえずテキスト、完成。稽古場、上演に向けて再発進。

錦鯉の稽古の日。
そして、テキストを出さねばならぬ日、、、。


土曜の夕方から夜は、昨日書いたとおり、観劇・歓談タイム。
それからは(その前も)パソコン向き合いタイム。


なんとか、なんとか、、、、。


気付くと、夜中、通っている。
さらに、ちがう頭で見直さなければ、、、、。
明け方、さらに進む。
うー、最後と、なにかが、、、。


昼直前、さらに見直す。
うしっ、とりあえず、これで行こう!


全体として、タイトで、シックで、芝居っぽくなりすぎてしまった気もするけど、、、。
調子の悪いプリンタで、能率悪く、プリントアウトして、コピーして稽古場へ。


芝居の半ばほどに設定した「独立シーン」(夢のシーン・自主稽古をベースとしたシーン)の稽古を見る。先週からそうなんだけど、これからはボンヤリとした(あてどない)自主稽古ではなく、上演を見据えたシーン稽古。コメントのしかたも変わってくる。
さてさて、これがどのくらい深くなるかが、この芝居の片方の重み。そして、出たテキストをてかに自分事としてとらえられるかが、もうひとつの重み。ふたつを均衡させるんじゃなくて、相乗させるには、、、これからこれから。


明確にしゃべること。あまりしゃべらないこと。、、、意識しよう。


死ぬ気でやって、やれるだけやって、やれる以上にやって、、、自分でも思わぬことが出てきて、他人の出てきたそれを(受け止められないのに)受け止めて(苦闘して)、、、それでやっと、銭を払って見にくる客に応対・対応できるレベルになるんだと思う。
そりゃ、それなりにがんばれば、オトモダチは喜んでくれるだろうし、誉めてくれるだろうけど、それじゃ学芸会とおんなじ。「学芸会の喜び」と題した文章を昔書いて、そこでそれのすばらしさを説いた者として、学芸会のすごさを肝に銘じたうえで、「次」というか「別のもの」をかたちとして提出しないとあかんのよー、と、いま強く思う。


なにかイメージした(構想した)言葉を覚えてしゃべったり、イメージした(構想した)動作をやってみせるだけじゃ話にならない。それをしてしまったことからはじまるナニカに突入していける身体になれるか、そんな身体を獲得できるか、そんな身体を提示できるかどうか、が問題。


ふるえないで舞台に立ってる奴なんて、ニコニコして「がむばってるねー」としか迎えられない。
伝染させてくれ。感染させてくれ。
驚かせてくれ。泣かせてくれ。圧倒的に笑わせてくれるんでももちろんいい。
心を凍らせてくれ。それを溶かしてくれ。


さてさて、「稽古場で見る」者として、心に届くシンプルな言葉がいえて、心に届くシンプルな態度がとれるよう、頭をそちらに切り替えよう。
深さが問われる立場だね、ホント、、、。