錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

先日のからみ稽古について、雑感。

劇団プログへの文を(削ったかたちで)再録。


やった本人たち自身がよく感じたんだろうけど、ひまひとつ。
みんな言ってたみたいに「トレンディードラマ」みたいだったし。
まあ、「あんなふうにしか動けない」という、身体の制度というか、どうしようもなさみたいなものが出ただけでも、まあいいか、と。


でも、それはこないだの話。
やってて恥ずかしかったろうし、見てても恥ずかしかった。ただ、見てるほうは(知ってる人間だから)笑えて見れたところもあったけど、知らない人(客とか)には見れたもんじゃないと思う。
コントのほうがまし。(コントをするのにも才能がいるんだけど、もちろん。)
コントは形式化されているもの。実はトレンディードラマもおんなじ。形式化されている。ある種の演劇パターン(小劇場風・テント風・前衛風)もそう。われわれは、いろんなものが無意識レベルで身体に染みついていて、自分の知らないうちに無頓着にそれをなぞってしまう。


そこからなるたけ離れたい。
このままのノリでやったら、次もまた、こないだの繰り返しになる、たぶん。


自主稽古というのは「自分のやりたいこと」をやるのが(見るのが)目的ではなくて、無意識のうちに染みついた自分という身体(もちろん頭も含まれる)からいかに離れられるか、離れて新しい自分を発見してしまっていかに自分自身で驚けるか、というための稽古。離れようとしても、それはわかちがたく身体にしみついている。それを「あー、またか」と身体で実感し、嫌になり、それでもその身体とつきあい続けるなかで、ナニカが生まれてくる・変容してくる、、、そういったことをねらったもの。離れようとしても離れられない、どうしようもなく残る貧しいギリギリの自分の身体(もちろん頭も含まれる)をお互いに表出しあう、そこから貧しいなりにもはじまる、かもしれない、関係、、、。


からみ稽古も基本は同じ。
それなりにあわせて「それらしい時間」を構成するのが目的じゃない。
そんなのをしたいわけじゃさらさらないし、そんなのを見たいわけでもない。
こわいほどの個々の表出と、こわいほどの「からまりのなさ」、、、それでいいと思う。
2002年に、1人が喋り、1人がその周りで踊った。あれはからみだ。
もちろん、あれはパターンのひとつ。あれみたいなのをまた見たい(再現してほしい)、というのではない。


個々がなにか、ひとりでやる自主稽古のときのような「用意」(ブツと心持ち、両方の)をすることが必要なんだと思う。なんでもいいんだけど、極端なナニカ。おもしろければいうことはないんだけど、(とりあえずは)おもしろいことをやってもらわなくともいい。当人たちにとってキビシクオソロシイもの(身体)を提示してもらいたい。そういうのが、見たい。


、、、なんか、観念的な物言いになってしまってすまないんだけど、、、相談するでもしないでも、なにか各々が「準備」してくれることを望みます。