錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

TAGTAS結成プロジェクト『百年の<大逆>』開催にあたっての文章03。

◆円卓会議
「『魔女傳説』とその時代」
(報告者:菅孝行、佐伯隆幸、佐藤信福田善之


1969年、『魔女傳説』が上演された年である。『魔女傳説』のあとがきに福田善之は記している。

「出来得るかぎり、資料を大切にしながら、年月をかけて、ぼくのなかに育ってきた仮構ということと、それをぼくは、こんにちただいまのために書き上げる」

劇団青芸は『和泉屋染物店』(木下杢太郎)で旗揚げ公演をし、福田善之は59年にラジオドラマ『大逆の女』を書いた。その後資料を調べながら69年に『魔女傳説』の上演へと至る。69年当時に、福田善之が「こんにちただいまのために」書き上げ、上演した『魔女傳説』を巡って、彼ら、彼女らが何を問題とし、議論を繰り広げてきたのだろうか。いま、再び、こんにちただいまのために語りはじめる。


◆朗読会『明治の柩』宮本研 作 / 『冬の時代』木下順二 作


「地に平和を投ぜんがためにわれ来たれりと思うなかれ。平和にはあらず、剣を投ぜんがために来れるなり。」

旗中正造(田中正造)、豪徳(幸徳)、そしてキリスト者たちの三者三様を足尾銅山鉱毒問題から大逆事件までを視野に、明治という時代に何が議論され、何が滅んでいったのかを宮本研が鋭く描いた『明治の柩』。

大逆事件」以降の思想弾圧の中、何を考え、何を行えるのか、渋六(堺利彦)を中心に売文社で交わされる議論を呼び起こした木下順二作『冬の時代』。

演劇または劇場があらゆることを問い、そして議論する場であるということを象徴する二作を朗読し、また朗読会の前後には議論をする場を開く。



◆円卓会議
「<大逆>と日本近代演劇の起源」
(報告者:豊島重之+TAGTAS)


 フレームアップの典型事例として知られる大逆事件(1910-11)とは、日本国家が近代的な「帝国」として自身の輪郭を確立した兆候である。すでに江戸期にその形成を開始してきた「帝国日本」は、日清日露戦をメルクマールにして、新たな「形」をもって出現する。爾来、それまでは観念的に構想されていた拡張主義が、国際覇権を目指すなかで現実化され、また国内では社会思想・労働運動の統制が強化される。ここに及んで外的拡張と内的統制のそれぞれに向かう力は相補的に「国家-体(国体)」を形成する。この兆候の争点とは、反国家的なテロリズムではなく、「帝国」が出現し自身を編成していく過程における力の流れである。諸芸術では内面化が進行する一方、「国家-体」への抵抗も強かに続行される。このダイナミックスにおいて舞台芸術も「近代演劇」として領域化されていく。

 本会議では、日本という事例における<近代>と<帝国>の姿を、舞台芸術の経験と歴史を軸に、身体・表象の生成・統治と編成の技術など、様々な局面を掴み直す。



◆円卓会議
「革命の身振りと言語I  芸術の自由と倫理」
(報告者:井上摂、遠藤不比人、鈴木英明)
「革命の身振りと言語II ビオス・ポリティコスの実践と方法」
(報告者:鴻英良、内野儀)


 近代世界は「資本主義」と「帝国主義」によって規定されてきた。しかし人文学の進展によって、むしろ「表象」の体制、すなわち「再現前re-present」の機構による、「世界」の多重化と反復の体制こそが「近代性」の特徴と見なされるようになった。表象化される近代において政治運動は、「絶対主義」への闘いとしての「革命」によって徴づけられる。それは別のグローバリズムとして汎地域的すなわち世界的に展開される。しかし「革命」とは単なる政権交代の謂いでもないし、また新たな権力体制への褶曲でもない。それはひとつの希望、より善きものへの希望であった。

  今日、「革命」は単なる反社会的勢力として死語化されている。なぜ、いかに、「革命」は無化され、あるいは隠蔽されてきたのか。しかし現行の社会は「完全な社会」ではありえない。あるいはまた既存の「革命」は革命であったのか。なにが奨励されなにが忌避されているのか。これらの問いは「革命」という語、そしてその身振りの再検討によってのみ導かれる。


◆レクチャー「前衛の系譜」(大貫隆史+河野真太郎)


◎円卓会議総合司会=鴻英良  通貫報告= TAGTAS