けっこう昔に書いた、山田が「民衆演劇」について、触れている文章。
可能だったかもしれない世界、あるいは、妄想を体験してしまうこと。
誰が・いつ・どこで・誰に語っているか、からしか始めることができない演劇の古典的即物的可能性
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コミュニケーションのあり方が多様化した現在において、ジャンル=スタイル=方法としての演劇の独自性は「コストの高さ=能率の悪さ」にある。そんなトロイものになんかつき合っていられないよ、という類の。あるいは、その特別な感じがいいのよね、という類の。現在、テレビ・インターネットと演劇は対極をなしている。そこでは演劇の持つ古臭く時代遅れの要素があからさまに露呈している。同時に楽観的に言ってしまえば、そこには現在における演劇の可能性がある。
この文章は「民衆演劇=われわれ自身の演劇」のためにある。この困難で生き難い時代を可能な限りまともに生きるために、あるいは、まともに生きるにはあまりにも現実がまともでないことを直視するためにある。そして、その「まともでなさ」を自分たちとは無関係だと無責任に感じがちなわれわれの現実をハードでタイトに見据えるためにある。
可能だったかもしれない世界、あるいは、妄想をめぐって、これは書かれる。
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演劇は「する」方から言えば、たかだか数回のステージのために、数カ月の稽古を行わなければならないというコストの高さ=能率の悪さを持っている。(ここではプロによるレパートリー制の演劇はとりあえず横に置いておく。主に、演劇以外の活動=賃労働をしなければ演劇活動も人生も成り立たせることができないという立場の人間が念頭に置かれている。事実、そのような立場で演劇に関わる人間は決して少なくないだろう。)互いの時間を合わせ、稽古場を確保し、濃密な稽古現場を実現していくのは想像する以上に至難であり、面倒であり、手間のかかることだ。当然のごとく誰かが所用や健康状態のために遅れたり、来られなかったりする場合もたびたび以上にある。一週間に1・2度のお稽古ごとでない以上、徹底的な集中力が連日必要とされるわけではあるけれど、全員が全員毎日緊張感を維持しているとは限らない。そして、緊張感がない稽古現場はどれほど長い時間を費やしたとしても実りはない。
実際、多くの公演は「その公演以前に個々の俳優・スタッフの持っていた能力を限りなく再構成する」ことによって成立している。実際に稽古現場自体でナニカが生まれるという楽しい場面は滅多にあるものではない。そもそも(ナニカが生まれた時の)楽しさや(ナニカを生み出そうとしてなかなか生まれない)苦しさが求められている稽古現場はまれだろう。演劇の持つ「コストの高さ=能率の悪さ」を可能な限り回避して、公演本番の華やかさや緊張感をキープしようとする、というのが多くの稽古現場といってもよいかもしれない。
けれどそれでは演劇の持つ可能性も回避されてしまうのではないか、というのがここでの立場だ。演劇の可能性は開始当初の構想の実現にではなく、稽古現場において予想だにせず生まれてしまうかもしれないナニカにある。
演劇の「コストの高さ=能率の悪さ」がより明瞭に現れる局面がある。「別の人間とやってみる」という場合だ。演劇の制作過程や稽古方法というものは個々の現場によって驚くほど違っている。上演を見ればたいして違いがないようにしか見えない場合でさえ、個々のいわば芸術的に目指すものから、稽古前の準備体操などに典型的に現れる具体的な細部にいたるまで、おのおのの稽古現場は「同じ演劇だ」とは口が裂けても言えそうもない微細な違いに満ちている。逆に、一見あまり違うようには見えない同じようなタイプの演劇にこそ稽古現場の違いは強く現れるといってもよいかもしれない。その微細さはどちらかといえば頭よりも身体に染みついているだけに、「コストの高さ=能率の悪さ」を倍加させることになる。そこではナニカが生み出せるかもしれないというドキドキする楽しさも、最低レベルを維持するための手間も端的に倍になってしまう。
それを価値と考えるか否か。
さらなる例でいえば「演劇未経験者とやってみる」という場面では「コストの高さ=能率の悪さ」は累乗化される。自分たちがこれまで当たり前だと思っていたもの=演劇という作法そのものの自明性が(当たり前だと思いもしないくらい身体的に自明化されていたものが)それほどノーマルではなかったという事実が身につまされるからだ。考えてみれば当然のその事実に実感として思い至ることは現実生活では「まれ」だ。(現実生活で言えば「息子の妻と暮らすことになる姑=夫の母親と暮らすことになる嫁」というのはひとつの例になるかもしれない。それは具体的で、身体的で、暴力的で、些細なことこそが問題となり、たとえ両者が善人であったとしても問題が起きてしまうという意味で悲劇的だ。『渡る世間は鬼ばかり』が人気と説得力を持つのにはそれなりの理由がある。紋切型=メロドラマの決して廃れることのない強靱さと重要性もそれと関連がある。われわれはたいていの場合、紋切型=メロドラマをあまく見過ぎている。)
その「まれ」を現実化するために「民衆演劇」はある、といっておこう。それは「コストの高さ=能率の悪さ」を厭わない態度としてある。より正確に言えば「コストの高さ=能率の悪さ」とは別の違った「ものさし」を導入することとしてある。加えて、その「ものさし」は開かれていて、シンプルで、具体的でなければならない。
すでに、ある種の芸術・運動・宗教的な場面では「コストの高さ=能率の悪さ」を自己目的化・自己充足化してしまう悪しき事態が常態化している。外側にいる人間にはわかりにくいが、内部の人間にとっては「コストの高さ=能率の悪さ」は「やった気分=充足感」をもたらす場合も多く、かつ、閉鎖的な集団内では閉鎖的なものさしが必ず導入されていて、権力関係の固定(ヒエラルキーの構築)に一役買っている。(会社の営業成績でも、オウム真理教のステージでも、おそらく似たような事態が起こっているはずだ。)そういった事態に陥らないためにも「ものさし」は開かれていること、シンプルであること、具体的であることにあくまでも意識的でなければならないだろう。
ところで、その「違ったものさし」とはいったいどんなものでありうるのか。
「コストの高さ=能率の悪さ」についてもう少しつっこんでみよう。
演劇においては自前の頭でものを考えることを通してのみ、世界を把握することができるし、他者とのコミュニケートをとることができる。より正確に言えば、自分の身体的な体験・経験(=演技化)によってのみ、世界を把握することができるし、他者とのコミュニケートをとることができる。
具体的に考えよう。
「ある人間が、ある場面で、ある人間を殺してしまった」という話を想定してみる。その行為を説明=叙述する台詞があれば(とりあえず)それは伝わる。らしい動きをしてみせれば(とりあえず)それは伝わる。けれど、それだけではその演劇的事実は構成できない。演劇的リアリティは生まれない。観客を説得することはできないし、観客の心を揺り動かすことはできない。俳優がその世界を把握し、構成し、それなりの演劇的リアリティを実現させるためにはなんらかの演技化が必要となる。それには嘘にしか過ぎないのだけれども、その舞台上では(少なくともその俳優の)現実でしかありえない身体を使った体験化が要請される。けれど、どうすれば「体験化」などできるのか。
身も蓋もなく言ってしまえば、それは、実際にやってみなければわからない。少なくとも、そこからしか始まらない。イメージされたものと(頭で考えたものと、あるいは、社会的にコードとして共通認識されていると考えられているものと)実際に身体を使って行われるものとはかならず違ってしまう。行為者の体感としても、観ている側の実感としても。
人を殺すという行為は実際には「案外に手間のかかる」ことだったり、「意外とあっさり」していることだったりするだろう。それはおそらく、局面局面で単純に違ってしまう。うまくやろうとしてもうまくいかないこともあるし、うまくやろうとなど思ってもいないのにうまくいってしまうこともある。それは条理ではなく、不条理ですらない。ただ、身体=ブツとしての感覚だけは局面局面において必ず発生してしまう。実際、50キロの人間型の砂袋を持ち上げてみれば、人はその重さに唖然とするだろう。それ以上に、ある場面ではその50キロをいともたやすく持ち上げてしまっていた自分を後から発見して、驚きを禁じえなかったりするだろう。「うれしさ」とか「かなしさ」とか「頭が空っぽ」とか、あとになって名付けられる感情というものは行為中には実は存在しない。演技は表現されるものではなく、体験してしまうなかでのみ、成立する。
それは言うまでもなく「コストの高さ=能率の悪さ」につながっている。そのうえ、その「体験」は1人の人間においてなされるのではなく、集団=複数の人間関係において局面でなされるものだから、その「コストの高さ=能率の悪さ」は並大抵のものではなくなる。
「コストの高さ=能率の悪さ」をさらに助長させるのは、体験は繰り返しえない、というあまりにも当たり前な事実だ。形式的に同じことを繰り返しえたとしても、それだけでは体験としての切迫性を持ちえない。(逆に、どんなに表面的に同じものに見えたとしても、体験となり続けている場合もあるだろう。)演技化=形式化されなければ体験化されず、形式化しえたものを再現しようとすることだけでは体験とはなりえない。そのパラドックスを一挙に身体化=現実化することが稽古現場ということになる。
実際には(あとから見れば)案外とたやすく演技化=体験化はなされている。より正確に言えば、なされてしまう。それは決して難解などではなく、誰にでもできる。けれど、いつでもどこでもできるというわけではない。「できる場合にはできるし、できない場合にはできない」というあまりにも単純で無慈悲で不確定な性質をそれは持つ。演技化=体験化が実現されたときの体感を(あとから)表現するならば、まさに「腑に落ちる」という言葉が似つかわしい。
何十年と役者をやってきた俳優が「素人に食われる」場面が演劇上演においてはしばしばある。経験の豊かさのようなものが役に立たないとかゼロかといえば、そんなことはない。「(舞台上で)生きてきたこと」「(舞台上で)存在してきたこと」は人間的な重み・存在感として「見た目」に端的に現れるからだ。ダンスや舞踏ではさらにモロにそれは現れるだろう。人間としての重みや存在感とは「人に・世界に向かう姿勢の潔さ、決意の深さ」として誰がみてもわかってしまうかたちで無慈悲に現れてしまう。
とはいえ、経験者が「素人に食われる」場面はしばしばある。なにゆえか。「素人が輝く」瞬間とは、体験化がその場で発現している場合といっていい。本人が自覚していないレベルで本人の思考が身体を通して実体化・生成化する瞬間、まさしくそういったことが経験者が「素人に食われる」場面では起こっている。まれにしか起こらないが、しばしば起こることとしてそれはある。(交通事故に遭って自分が死ぬことを想定してみればわかりやすい。そんなことはありえないとタカをくくっているのが通常の人間だけれど、その死は十分過ぎるほど現実的だ。)
さらに「コストの高さ=能率の悪さ」について考えてみよう。ある人物が喝破した通り、「演劇ほど現実的なものはない」。より具体的に言えば「演劇は動作の省略をしない、というよりもできない」という性質を持っている。演劇は時間を飛ばすこともできないし、速さに関してもあからさまな限界を持っている。お話の上で(芸術表現の上で)必要とは思われない部分も身体的動作的には省略することができない。演劇上演には必ず身体的なものに起因する「だぶつき」があり、演劇は必ずトロさを伴う。そもそも人間の生そのものがそういうものだ(省略なんてできないんだ)という事実を否応なしに感じざるをえないのが演劇という不器用な場だ、といってもよい。言い換えれば、演劇には夢(イリュージョン)がない。
具体的に考えよう。
俳優がある一定の目的に従った行動=動作をしようと思ったとしても、かならずそこにはだぶつき(別の観点から見れば「余剰」)が生じてしまう。あとから見れば(観客から見れば)ある動作・場面から意味を抽出することはもちろん可能なのだけれど、(そして制作者側も意図・意味をそれなりに志向しているはずなのだけれど、)その場の事態として言えば(渦中にいる者=俳優にしてみたら)結局、場当たり的な懸命なる反応としてしか対処できないのであって、そこではすでに意味/無意味という境界線は有効ではなくなっている。
劇作家・演出家・制作者の視点からは整序されるべきものも俳優の実際の立脚点では整序されずに余剰として残ってしまう。俳優という約束事に慣れている(いわばプロの)俳優ならば、もちろん目指されるべきものとの誤差(余剰)を少なくすることができる。けれど、いわゆる素人にはそれができない。おそろしいことには誤差が少ない舞台が観客の心を動かすかといえばそうでもなく、素人が経験者を食う瞬間が成立してしまう理由はそこにもある。(正確には、誤差=余剰を常に凝視し続け、制約というものをたえまなくその身体に感じ続けられる意志と能力を持つ人間こそが豊かなプロの俳優ということになるのだろう。それは「名優は常に向上心を持ち続け、努力し続ける」というような他愛ないが厳然たる事実でもある一般論にもよく現れている。紋切型は抽象的でない場合にはたいがい真実だ、ということがここにも現れている。)
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現在、テレビ・インターネットと演劇は対極をなしている。世界地図はすでに地球儀では測れない状態にある。「距離」(人間の空間把握=世界把握のありよう)はすでに自明の概念ではない。自宅のすぐ裏のことを少しも知らぬ人間が海外の劇場や街並みについて詳しく語ることはすでに日常化している。隣の住人が首をくくるかくくるまいか自棄酒を飲みつつ朦朧としているまさにその時に、遠くアフガンの事態を憂えている善人を見出すことはたやすい。一歩も家を出ないいわば引きこもりの人間が、自分では社会的で行動的であると信じて実際には決まったルート=関係を繰り返し移動しているだけかもしれない人間よりも、世間が狭いとは限らない。逆に、ネット情報や知識を駆使しつつ、なんでも知っているように見え、発言している(わかったような)人間が実はなにも知らないに等しいという事態もありがちだ。
現在、「距離」を考える際に重要なのはその「測り方」ということになる。測定法の身体化のしかた、といってもよい。ネット情報のようなものが空疎で、実際に見聞きした話がリアルであるということもありえない。問題は「感知のしかた」にある。たとえば、バブルな時期に話題をさらったサイバーパンクのウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』は身体のありようを考える際に役に立つ。現在、身体性が驚くべきほどに変容していて、にもかかわらず(変容してしまったかたちとして)身体性は残骸として残らざるをえない、ということがそこでは明瞭に描かれている。さらに具体的に言えば、寝たきりでチューブから栄養補給をし、喋ることさえままならない人間がネットを通してのみ世界と交信している=生きている状態を想像してみればいい。それは決して極端な比喩などではなく、すでにわれわれの日常の話となっている。
情報が錯綜し、正しそうにみえる発言(たとえば「テロはよくない」)が蔓延している現在、重要なのは「なにが語られているか」よりも「誰が・いつ・どこで・誰に、語っているか」ということになるだろう。そして「誰が・いつ・どこで・誰に、語っているか」とはすなわち「身体性」の話にほかならない。そのあまりにも古典的で即物的なありようとして演劇はある。演劇が「可能性」として立ち現れる余地がここにある。
「誰が・いつ・どこで・誰に、語っているのか」。どんな顔つきと表情で、誰に向かって、どのような物腰で語っているのか(あるいは、黙っているのか)。現実の生活においても、演劇上演の場においても、現在の社会ではそれこそが重要だ。映像使用なども含めて、演劇の多角化(コラボレート化)の試みがいくつもなされている今、もっともプリミティブなかたちでの「誰が・いつ・どこで・誰に、語っているか(あるいは、黙っているか)」という演劇の古典的即物的ありようは意識されてしかるべきだろう。
(とはいえ現在、テレビ的・インターネット的=それらに意識的な演劇上演は増えつつあるのかもしれない。同時に、ダンス・舞踏のような純・身体的ともいえる表現スタイルが注目されている事態もこのことと関連していると思われる。)
ともあれ、世界把握を観念としての「内容」ではなく「方法」として具体的身体的に問わざるをえない、という古典的即物的な点において、演劇というスタイル(の限定性)はきわめて現在的だといえる。
現在の世界では「事実」(起こったこと、あるいは、起こっていると認知されていること)からすべてを認識・構成してはならない。起こっていたかもしれないこと、起こっているかもしれないこと、起こりえたこと、起こりうること、を想起してみる必要がある。もしくは「世界全体がなんと言おうとも、少なくとも俺の頭の中では起こっているんだ」という類の(もしかしたらかなり「危ない」)妄想を否定しない必要がある。
そういった可能だったかもしれない世界、あるいは、妄想について執拗に書き続けている作家にティム・オブライエンがいる。彼の作品の多くは自身のベトナム従軍体験がベースとなっている。そこでは「地雷」という装置について書かれ、あるいは「徴兵通知」や「逃亡」について語られる。さらにそれに付随する、それから発展するとめどもない妄想について言葉がつむがれる。
けれど、可能だったかもしれない世界、あるいは、妄想とはいったい何を意味するのか。
作品から引用しよう。
(略)でもいいですか。実は「この話だって」やはり作りごとなのだ。
(略)今から話すのが実際に起こった真実だ。
私はかつて兵隊だった。そこにはたくさん死体があった。本物の顔のついた本物の死体だ。でも当時私は若かったし、それを見るのが怖かった。おかげで二十年後の今、顔を持たぬ責任と、顔を持たぬ悲しみを抱えている。
ここからがお話の真実だ。彼はすらりとした、華奢といってもいいような二十歳前後の青年だった。そして死んでいた。ミケの村の近くの小道の中央に横たわっていた。彼の顎は喉の中にめりこんでいた。彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ。 (『本当の戦争の話をしよう』)
「お話」をでっちあげることで彼はなにを企図しているのか。
「お話の真実」ということで彼はおそらく嘘であることによる現実性の確保、身体においての体験的枠組みの拡大をねらっている。
別の部分を引用しよう。
(略)「お父さん、ホントのことを言ってよ」と娘のキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことあるの?」そして私は正直にこう言うことができる、「まさか、人を殺したことなんてあるものか」と。
あるいは私は正直にこう言うことができる、「ああ殺したよ」と。
(『本当の戦争の話をしよう』)
彼は果たして殺したのか、殺さなかったのか。実際のところはわからない。
ただ、はっきりと「問題はそこにはない」と言いきってしまってもよい。
別の部分では、他人から見たら「たわけた」としか言いようのない妄想について真剣に語ってもいる。「逃避」ととらえられても言い訳できないようなくらいのたわけた妄想について。(たとえば『カチアートを追跡して』という小説でオブライエンは、戦場から逃亡した兵隊を追跡してパリまで行ってしまう=自らがパリに逃亡してしまうことを深夜歩哨に立ちながら妄想し続ける兵隊を克明に描いている。さらに、最終的な逃亡の決断を自ら選択できない自分を、追跡旅行の同伴者でもあるベトナム難民の女の子が「その態度は無責任であるに過ぎない」と糾弾する場面さえも妄想されている。)
妄想に対して、「それはつまらない妄想だよ」「妄想などでは現実は解決できない」と正論をかますことはもちろん可能だ。けれど、たわけた妄想が真実となる場合がある。少なくとも、たわけた妄想が「生」を殺さず、「生」を生き延びさせるのに役に立つ瞬間がある。
おそらく、この話は「宗教」の問題に立ち入っているだろう。宗教とはある意味で「たわけた妄想」の別名にほかならないからだ。そしてそれは「たわけている」からこそ、力を持つといえる。けれど現在、演劇の問題は宗教の話と切り離しては考えられないのではないだろうか。ここでは、演劇=芸術は「生」を生き延びさせるのに役に立つことが重要である、という立場をとる。怨霊を招き寄せ退散させる加持祈祷(祈り)が人間の幸福を呼び寄せ不幸を取り除くことができるのなら、あるいは、わずかながらもその一歩となるなら、加持祈祷(祈り)は明らかに価値となる。ということであれば、問題は一般論の内にあるのではなく「具体的なありかた」にあるということになるだろう。真っ暗な牢獄に永遠に閉じこめられているかもしれないとしたら、たわけた妄想は明らかに生きる糧=武器となりうるのだから。
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誰か=私が間違っていたか・いないか(誰か=私が殺したか・殺していないか)、あるいは現在形として、誰か=私が間違っているのか・いないのか(誰か=私が殺しているのか・殺していないのか)。それを特定することはできない。正確に言えば「語り口」によってそれは違ってしまう。ただ、言えるのは「人間は間違ってしまう(殺してしまう)可能性だけは誰もが不可避的に持ってしまう」ということだけだ。可能性の観点からすれば間違い=殺しと「無関係」である人間が存在することはありえない。それは個々人の「人の良さ」(倫理性)という話を越えて、もっと無慈悲なかたちのものとしてわれわれに到来する。
たとえば、その具体的な例として「戦場」あるいは「徴兵通知」あるいは「地雷」がある。
オブライエンが従軍することとなったベトナム戦争の場合、アメリカ前大統領クリントンが就任する際にも話題にのぼったとおり、外国に留学することなどによって徴兵通知を回避しようとすることはできたし、「醤油を飲む」ような病気を模することや知り合いの医者に診断書を書いてもらうことで兵役不適格者となることも可能だった。そんな中で実際に徴兵されることは「(あいつではなく)なぜ俺が」という不可解感を否応にも伴う。折りしも反戦デモは学生を中心に激しさを増しており(まともな考えを持っていると思われる)友人たちは「あんな大義も正義もない戦争に参加するなんてナンセンスだ」「逃亡すればいい、いや、するべきだ」と正論らしきものを吐き、生まれ育った街の人間の目は同情心を湛えつつ冷ややかに、けれど執拗に徴兵通知を受けた者に向けられる。
少なくとも世界的に見れば、いかにその戦争に正義がないと多くの人が考えていたとはいえ、徴兵拒否はアメリカの国内法においては明らかに犯罪だ。自分は逃げられたとしても残る家族は犯罪者の近親として生きていかなければならなくなる。少し前まで「ナンセンスで阿呆くさい」としか考えておらず、行きつけの飲み屋でほろ酔い機嫌の軽口でそう罵倒していたに過ぎない戦争に従軍するかどうかを真剣に悩まざるをえない不可解さ。
「実際に当事者になった」場合のことを人間はそう簡単に想像できない。
そして、「地雷」という装置はその無慈悲さと不可解さをさらに倍加させたかたちで目の前に現れる。戦場で地雷を踏むかどうかは「ほとんど運」といってよい。(同様に、戦場で人を殺すかどうかも「ほとんど運」といってよいだろう。)
引用しよう。
「ひどく悩まされるのは、本当は死の恐怖じゃない。疑いようもなく確かなことと、不確かなことの、とんでもない組み合わせに悩まされるんだ。地雷原を歩いているという事実、来る日も来る日も地雷のそばを歩いているという確かな事実がある。一方で、一歩一歩どう動いたらいいかはっきりしない。どちらに体重を移すべきか、どこに腰を下ろしたらいいか、いつも不確かなんだ」、ある兵隊はこのように語るが、実際には兵隊たちは地雷について「おかしそうに笑いながら、軽々しく話し、くすくす笑」う。「それは滑稽」で「馬鹿げて」いる。「兵隊にできることは、せいぜい冗談を言って恐怖を笑いにまぎらしながら、滑稽なへっぴり腰で歩くことしかない」。(『僕が戦場で死んだら』)
誰が地雷を踏んでしまうのか、踏まないですむのか、それは誰にもわからない。(誰が人を殺してしまうのか、殺さないですむのか、それは誰にもわからない。)地雷原に行かないこと、それが唯一の回避法なのだけれど、地雷原にすでに身を置いている人間にとってはそれはただの役に立たない空想に過ぎない。「なぜ(あいつではなく)俺が」「なぜ(俺ではなく)あいつが」という不可解で意味不明で無慈悲な世界がそこでは常態化している。そこ(戦場)ではなんでも起こりうるし、しかもそれは「ほとんど運」であるといっていい。行いのよい人間が得をする(人を殺さない)とも限らないし、悪人に天罰が下る(悪人は人を殺す)ということもない。もちろん、その逆もない。(ただし、最後の瞬間には個々人の「地雷を踏まないための努力を病的なまでにする意志」や「決して他人を殺さないという意志」が多少なりとも有効である場合はあるだろう。けれど、残念ながらおそらくそれは「決定的には」役に立たない。)
地雷という装置をあえて比喩として用いれば、われわれは現在(比喩的に)もちろん地雷原の只中にいる。ただ、実際に当事者になっているわけではないわれわれはそれを(地雷を踏むという可能性を、人を殺してしまう可能性を)うまく把握(想像)できない。
そのあいまいにしかありえない「可能性」が実体化・具体化できる(してしまう)とするならばどんな場面でなのか。「私とAという事象は関係ないわけではない」と言葉だけで言うにとどまらない、ありえたかもしれない関係性(=妄想)を実感化・具体化するにはどんな方法があるのか。
そこに演劇の現在的な可能性が立ち現れる。
演劇は基本的に「可能だったかもしれない世界」あるいは「妄想」を実体化する(やってみる・みせる)ことによって成立するという構造を持っている。演劇においてはどんなことだって起こりうる。演劇においては、白人にも黒人にもなれるし、性の交換もできるし、「片輪」にもなれるし、エリート・王様・奴隷、、、なんにでもなれる。演劇においてはなんでも起こりうる。(演劇という約束の上では「起こった」ということを共通認識することができる。)とはいえ、どんな本当らしい話であっても、どんなに本当らしく振る舞っても、演劇において行われることはすべて嘘=虚構だ。だから単純に考えれば、演劇は現実のわれわれとは無関係ということになる。
ところが、どんな嘘臭い話でも観る人がナニカシラの感動を覚えてしまう瞬間というものが存在する。
嘘が嘘でなくなる瞬間(実際には嘘が嘘でありながら観ている人の心を揺さぶる瞬間)はどのようにして起こりうるのか。それはたいてい、演じ手がその「嘘を嘘として自分事として引き受けている」場合に起こる。嘘を実際に「引き受ける」ことなんてもちろんできない。けれども、演劇がリアリティを持つ時には(人の心を揺すぶるという奇蹟的な事態が起こる時には)その不可能なことが実際に起きている。
ある役を演ずるとは(より正確には、舞台上に存在するとは)別の「生」を生きるという不可能な事態を引き受けることにほかならない。可能だったかもしれない世界、あるいは、妄想を体験することにほかならない。演劇が不可避的に持ってしまうスタイル=限定である「誰が・いつ・どこで・誰に、語っているか(あるいは、黙っているか)」という古典的即物的ありようは現在のわれわれの「生」そのものとしてある。