錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「時効警察」、演劇における政治的なふるまい、そして、、、

ひさびさに朝まで一睡もせずに仕事をしていたため、変則的な1日。
振り込み・買い物を済ませ、仕事の連絡を待つ。
午後になって、たまらず横になったらそのままグー。


その間に電話などなどがあったのだが、気付かず。
夕方起きると、めんどくさいことに、、、。


なんとか「落ち」をつけて、数日ぶりに走る。
キツイ。でもそれがうれしい。
帰って、また仕事。


時効警察」みる。
あれはヒロイン役の女性が効いているんだと思う。
「若くない」「かわいくない」のがよいんだ、きっと。
あれが仲間由紀恵平山あやだったら、ああはいかない。
けど、全体的にはデキスギなんだよなー。
あの手のドラマは犯人役が命だけれど、緒川たまき、そこそこいい。あまり知らなかったけど、うざったい印象があったのに。きっとこれも「若くない」のがよかったんだと思う。先週?の女の子(池脇千鶴)が犯人のときはやはり全体が薄かったし。


政治的に急進的な演劇(芸術)が政治的に機能するとは限らず、それどころか、上演側・観客側ともに、それによって現実的な政治からの逃避(免責)のような事態が起こっている。
それは、なんらかのメディアで(テレビで、雑誌で、ホームページで、ブログで、うちうちのパンフレットで、、、)「正しい」ことを言うことが現実的な正しいことにつながらないこととも似ている。言うだけではダメなのだ。(つまり、芝居をやるだけではダメなのだ。)正確に言えば、具体的な「やり方」が問題になっている、ということなんだと思う。


なにがどう機能するか(してしまうか)は結局、結果論的にしか、あとになってからしかわからない。けれど、そこを考え、想像し、限定的な責任を負う態度からしかまっとうな行動は生まれないんだ、きっと。


言うまでもなく、この話はもう数年前に東浩紀が「コンスタティブ」と「パフォーマティブ」という言葉で言っていたことと同じこと。というより、さらに以前に、柄谷行人がよく書いていた「言ったこととやってしまったことは違っている」と同じこと。さらにさかのぼれば、シェイクスピア近松門左衛門ギリシャ悲劇などなど、いたるところで語られていることと同じこと。
単純な話だけれど、普遍的なことは常に現実をリアルに覆っている。
世の中、やってみなけりゃわからないことだらけなのだ。
(やってしまってはじめて気付く、、、これが「悲劇」の構造だ。)


なにを語るか、なにを表象するか、ではなく、その表現を実践するなかで、見知らぬ身体の細胞が自らの意識を超えてうごめているのを感じてしまう、、、ということのなかに演劇の価値はある。
思わぬことが起きて、思わぬことをやってしまい、それが「顔」(外面)に出てしまう。
演劇はそんな「顔」(外面)を問題にしないとダメ、常に。


結局、「顔みればわかる」というバカバカしい話を俺は信じてるんだよな。
けど、これ、けっこうあてになる。