錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

内面的な地図、中上健次、そして「芝居の種なんていらぬ」。

朝まで起きてて、昼からめったにない昼間の打ち合わせ。
仕事。
ついうとうとしてしまい、あやうく遅刻しそうになる。
(実際やや遅刻したけど。)
めったにないせいもあるけれど、打ち合わせは疲れる。
「全開」でいくわけにもいかないし、「ほどほど」というのがむつかしい。
ま、日常的に人に会ってないからなんだけどな。


本郷2丁目辺りから御徒町まで歩いてみる。
けっこう近い。
下り坂だし。(それも半端でない坂だし。あれが闇夜ならばこわいだろうなー。)
それにしても、東大が不忍池の裏にあったとは、、、。


『新編輯版ドイツ・イデオロギー』(マルクスエンゲルスの共著)を薦められる。
けっこういいかも。


以前に何度も読んでいる、中上健次「熊野集」を電車のなかで読みつぐ。
「再読」というのはホントに俺にあっている。
以前とはまったくちがう印象。
年齢を重ねたことが大きいのかもしれない。
冒頭の泉鏡花ばりのすぐれた短編のすばらしさはおいといて、それからダラダラ続く「内輪話」は本当にすさまじい。そのすさまじさについては、いろいろなところでいろいろな人間が言及しているのは目にしていたのだけれど、まさに腑に落ちた。
こんな感じだ。
父親ちがいの姉の娘、つまり姪が小娘のうちに結婚し、子どもを産む。姪の亭主はアホで暴力夫だから、別れるといっても納得する。姪はまだ若いから産んだ娘を母、つまり赤ん坊にとっては祖母に預けて都会に出ていってしまう。そんななか、もうひとりの父親ちがいの姉が自らの離婚話を持ってくる。しぶしぶ姉の亭主のところへ行き、話をつける。そんな姉には実は何年も前から男がいて、その男の出資でスナックをはじめることがわかる。開店パーティで、そんな姉の娘、もうひとりの姪の腹に子どもがいて、その父親がアホで暴力夫の男だっと知る。うんぬん。
最初の姉の夫もよその女をつくり、出奔状態であり、そもそも、姉たちの弟である自分の父親だけがちがっていて、3人の男の妻となった母親(最初の男はふたりの姉、2番目が自分、そして3番目が自分たちを育ててくれた養父)とともに、実の父親というのも近くにいる、というせまさ。そして、「路地」。
ギリシャ悲劇的でもあるし、古事記的でもあるけれど、これは中上にとっての現実。
けれど、「小説の種には困らないわね」とぼやく妻に「小説の種などいらんのじゃ」と怒鳴り散らす中上はかつては遠くにいた。というより、物語の登場人物のようだったけれど、いまではもう、そう思わない。


妹からメールと留守電があった。
米も炊いた。
明日は節分。
同じ「枠組」(テーマ)でも人よってまったくちがっている。
そして、まったくわからないものに付いていく、あるいは、付いていこうとする姿勢は(あとになってから振り返ると特に)とても素直で喜ばしい。