錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

誰にでもできること、問題はそこから、「ナインストーリーズ」。

仕事、進める。
頭をカラにして。
たまってるからしょうがない、、、。


錦鯉のメムバ、今回やりたいなーという人、ストアハウスにメールを出す。


夜は走る。
柔軟する。
頭をやや使って身体を動かす。
音楽にノルということは、歌をうたう、セリフをしゃべる、、、などなどと同じように、覚えるものではないんだなー、と改めて思う。
振りは覚えられる。
歌詞も音程もリズムも覚えられる。
セリフや動きの段取りも覚えられる。
それは(ちょっと練習すれば)誰にでもできる。
、、、問題はそこからだ。


叛通信の稽古をひさびさに見たときも思ったし。
「同じセリフ」で「同じ動き」に見えても、まるでちがう。
もちろんコンディション問題もあるけど、、、顔に出る。
気がヌケテルように見えることもあるし、ノッテナイ風に見えることもある。
もちろん逆もある。
そんときはなんかウレシソウに見える。


眉間にシワが寄ってる状態って、やっぱまだまだなんだよな。


まったく別の話。
サリンジャーの「ナインストーリーズ」をわざとノロノロと読み進めてる。
そこでの雑感。


「はしょり」と「ネタばらし」。
言わないこと、と、事前に事実を告知してしまうこと。
「はしょり」については、文芸評論家の加藤典洋が10年くらい前に村上春樹について語るさいに「言い落とし」や「レティサンス」という言い方をしていた。ま、それとだいたい同じ。
村上がサリンジャーから多大な影響を受けているのは知ってたけど(「ライ麦」とか訳してるし)、「ナインストーリーズ」を読むと、これまた印象がえらく変わる。
ナインストーリーズ」は、凝っていて、悪意がある。
伝達・言い方の問題を第一にすること、語りの魔術・方法、、、こんなのは誰でも言うし、誰でも考えてる。けど、「ナインストーリーズ」は深い。この深さは「質」を変えてしまうくらいのものだと思う。
つーより、ちがった「質」としてしかとらえられないがゆえに、言葉の話(方法)について深くならざるをえない、というべきか、、、。


中上と平行してサリンジャー(それも双方とも短編)を読んでいると、とても勉強になる。というか、いろいろ考えてしまう。
「ネタばらし」については、アーヴィングの「オーエン・ミーニーのための祈り」なんかを読むと、アーヴィングもサリンジャーを凝視してるんだな、と思う。
「ネタばらし」としては「オーエン・ミーニーのための祈り」は徹底している。ベタベタなほどに、力強く。けど、「ナインストーリーズ」のなかの一編「エズミに捧ぐ」ほどにはこわくない。
(「ディファレント・シーズン」とかを読むと、キングもやっぱサリンジャーを強烈に意識してるんだろうなー。ま、無理ないけど。)