錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

机にかじりつく、サッカーと芝居、迷いと稽古、いつ頭を使うか。

すっきりしない天気。
ま、傘は持たなくていいくらいだけど。


仕事、けっこう進めてるんだけど、、、まだまだある。
、、、うれしいけど、むむむ。
ま、なくなると困るんだけど、マジ。


連続して、集中してやってると頭が破裂してくる。
確かに集中を要するタイプのことだからなー。
で、24時間スタイルで、途中途中に「仮眠」しつつ(この仮眠が長いんだが)、ずーっと机に向かってる。
だから、走りにいくのはとても重要な時間。
そもそも、それがないと「家から1歩も出ない1日」となる日が飛躍的に増える。
だから、少し走り、少し柔軟する。


隙間に、気分転換的にでも確定申告をしなければ、、、。
これ、一気にやらないと悲惨なことになるから、そんな作業をするのにすぐれたノリを獲得した瞬間に一気に片付けなければ、、、。
あと2週間、、、。


さて、買い物もできず、家にあるものをゴソゴソあさって、なにやら食う。
(あー、新鮮なもの、食いてー。)
で、録画したサッカー見る。
イタリア×ドイツ、親善試合。
むむー。
こんなに差があるとは、、、。
点数だけの話じゃなくて、進み方というか、進め方というか、、、。
自信というか、認識というか、、、。
おそらく、個々人はどちらのチームのどの人も優れた選手なんだと思う。
けど、こんなにちがってしまう、、、。
なぜだ。
俺みたいな素人が見ても、走り方ひとつで「差」がわかる。
迷いがない。
もちろん、ミスはある。無駄に終わる走りもある。
けど、個人のなかで迷いがない(ように見える)から、疲れない(ように見える)。
それが続く。
連続する。
個人と個人が連動する。
もちろん、うまへたはある。(素人が見てても、ややうまい・ややへた、はわかる。)
でも、迷いがなく連動してるときは、システマチックというか、考えることがない、というか、ひらめきが自然に出てくる、というか、深くなっていく自分(たち)が自然に流れのなかで見いだせていってる、というか。
おそらく、そんなときは疲れない。


、、、それって芝居とまったく同じじゃんって思う。
個人のうまへたはある。
でも、うまい役者が必ず「いい」とは限らない。
うまく機能しないこともある。なんか腑に落ちないことがある。
へたな役者が「よく」見えるときがある。
へたな役者を見てられないときもある。
そんなとき、へたな役者は「迷ってる、無駄な考えを持ってる」んだと思う。
、、、芝居でも、個人が迷いがなく(見方によってはシステマチックで)他人と連動(感応)しているときは、ひらめき(すぐれたリズム)が自然と出てくる。
へたの考え休むに似たり?
というより、その場で考えて出てくるアイデアなんてたかが知れている、たぶん。
その前の段階で(稽古で、練習で)いろんなことを好き嫌い関係なく、やっておくこと。とにかく、たくさんイメージして、たくさんイメージの現実化を試みておくこと。
そして、そのやったことを決まり事として「約束」にしてしまうんではなくて、リズムとして、自分のなかに、関係のなかに痕跡として記憶しておくこと。


、、、なんだ、芝居もサッカーも変わらんな、ホント。


集中だけの話でいうと、スポーツなりライブアートは、結果から見ると、よいときはその前の顔からしてよい。バカみたいな言い方になっちゃうけど。
んなら、どうやって「いい顔」にするのか。
、、、ま、稽古とか練習、つー話にしかなんないんだよな、結局。
で、問題はどんな稽古・練習をするのか、って話になる、、、。
落ちは、ない、、、。
稽古のときこそ頭を使うべきなんだな、きっと、おそらく。うん。
さてさて。


そうそう、漫画アクションに掲載されていた「鈴木先生」第3弾を読んだ。
友人である、武富健治さんの作品。
それについて少し書こうと思ってたけど、後日にしよう。
(「後日にする」が多いなー。)