錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

錦鯉の稽古。(繰り返しやらなきゃね、、、。)

そして、錦鯉の稽古の日。
今年2回目。
前回は「日和った」からなー。


ボロボロカスカスの頭で考え、イメージアップをし、音楽を頭にたたき込み、アンダーラインを引く。
照明を準備し、メイク道具から歌舞伎白粉だけを抜き出し、カバンに詰める。
何度も何度もちいさな声で繰り返す。
「最初が肝心なんだ。それが転がれば、稽古なんだからデキは問題でないし、、、今日は最低30分最長1時間やるぞ」と決める。
「最初が肝心、最初が肝心」と改めて繰り返す。


電車に乗る。
つくばまでは以外に近い。
乗ってる時間は1時間。
しかし、小旅行の気分は変わらず。


今回も参加は3人、やるのは2人。
ところが、なんと、俺は浦和から、残りの2人は国立から来たという。
3人そろって大移動。
んなら、なにもつくばで、、、あるいは、日をずらせば、、、。
と、思うけど、ま、いまさら、ね。


やるのみ。


やった1人は前回と同じセリフ。
ちがう曲。ちがう動作。
ただ「動かない瞬間」を多用する、というパターンはいっしょ。
ロミジュリの一節(マキューシオ)とニップオンで彼女が喋った「ハウス」の一節。
双方とも2度3度繰り返す。
動かない時間も入れて、全部で20分ほどか。
(前回のほうがやや長いか。)


いまひとつ見えない。
長いセリフを(本番でもないのに)ちゃんと覚えてくるのは敬意に値するし、流暢に喋れてもいる。
ただ、見えない。
プラス、「面を切っている」ように見えない。
ある種のスタイルができるようになっているのは確かであり、かつ、それがまだ「ちょっと、らしく、できる」に過ぎないのがよくないのかもしれない。どんなスタイルであれ、徹底してやること、か。
あるいは、身体が固定化されていると判断して、もっと「大きくぢがった」ものに取り組むべきか。
ま、焦ることはない。
でも、衣装であれ、メイクであれ、歩き方であれ、癖であれ、喋り口であれ、もっと「技巧」を意識すべき、そして相反する話だけど、いったん「技巧」を捨てるべき。


それは自分にも言えること。
閉ざされた空間で記憶があいまいな男が書いた「日記」を読むことによって記憶・自己・現在を取り戻そうとする、、、というのが設定。
ある小説の枠組とプロットをそのまま。
日記(小説)の部分部分を現在から近い順に(逆さまに)読む、というスタイル。読んだら、それを忘れないように(身体に入れ込むために)日記のページを破り、食うという手法。
ある日、急に忘れていた歌を思い出すということがあって、歌もうたった。
(この歌についてはじはらく迷った。何度も変えた。讃美歌のように歌おうと思ったが、ずいぶん離れてしまった。「らしく」つくって逃げてしまうというのは俺もそうだけど、よく陥る罠だ。)
スペースの真ん中に座ってもらい、明かりを下からあて、椅子の上に立ち、、、からはじめて、中央を中心に全体を使った。途中、照明も点けたり消したりした。鏡もあったので、それも意識した。
ただ鏡なんかは「らしく」なっちゃってるよ、と言われた。まさしく同意。
鏡を使うのならば、もっと技巧が必要だ。
結局45分やった。
腰のこともあるので、動きはだましだまし。
やっぱキレが勝負だよなー。
ま、しばらくこれで行こうと思う。


稽古後、少し飲む。
ホントに少し。
なんたって時間がない。
(稽古はじまりも遅かったし。)


行こうとしていた芝居が2つあって、どっちも行ってない。
明日は行かねば。
プラス、制作的な話もしなくては、、、。