錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「TPCB」のハムレットマシーン上演(「HITBOL」)についての文章。

今夜は芝居に行くぞ、、、モードだったのに、行けず。仕事が踏ん切りつかず。
なので、明日、2本見るぞー、、、。おー。


稽古のこと、いろいろと調整。
なかなかあわない。
きのう、稽古でダラダラと長く過ごすのが大切と書いたのに、、、。
ま、進むのみ。


ところで、いつか忘れたけど最近、いろいろとネットサーフィン(死語?)した。
いろいろ(特にブログを中心に)見た。やっぱブログ、流行ってる。


で、錦鯉タッタの上演ではないんだけど、2002年に金沢でやった(錦鯉の前身っぽいグループの)TPCBの上演について書かれた文章があったので、その抜粋をちょっと載せさせてもらう。
(ま、いいよな。全文は載せない。西堂行人さん、ありがとうございます。)
(全文を見るならばURLは、http://ccpc01.cc.kindai.ac.jp/ichs-html/home/critical/critical4.html。)


 これと対称的だったのは・TPCB(シアタープロジェクト"キャッチバイ")のHMです。この上演の枠組みとして採用されているのは、女子刑務所でHMを強制上演するというものです。ドラマ工房の中には「く」の字型に刑務所の内部が組み立てられます。そこには無数の矢印のシールが貼られています。[美術=高島芳幸]その檻の境界を越えるとき、「○○訓練が終了しました」といって、跨ぎ越す訓練風景が執勘に反復されるのです。その反復が次第に強迫観念となって積層されていくことはこの劇では重要です。他方で、HMのテクストをどう語るか。演出の山田零(やまだ・れい)は「ミュラーのテクストは妻の自殺や私的なことが多く書かれている。極私的から初めて世界にたどり着けないか」が発端にあったと言います。そのためには俳優一人一人が自分の問題から出発する方法が徹底されていました。なぜ彼らはこの刑務所に収容されたのか、その個人の事情を語るモノローグが吐露されるのです。ある者は「1999年1月9日」にこだわり続けます。その日が、彼女が階段から落ちてケガをした日だったにしても、です.人には他人の与かり知らぬ固有の事情、言葉があります.その「自分事」を通して世界に接近しようというのです。

 わたしはこの方法にかつての「アングラ演劇」の問題系に通じるものを感じました。アングラ・小劇場演劇は素人が徒手空拳で開始した演劇運動ですが、そのとき武器となったのは、技術の巧拙に還元されない個人の存在でした。彼らにとって演劇とは自明のものではなく、むしろ「生」それ自体が前提としてあり、演劇はその後に来るものなのです。そうした者たちがHMの言葉を必要とする。つまり彼らが舞台にいる根拠をHMが与えるのです。

 後半部で、いよいよ刑務所内でHMの上演が行なわれます。この上演が傑作でした。まるでキャバレー形式で即興的に演じられたからです。すると、HMの言葉がまったく難解さを感じさせず、意味あり気でなく、言葉そのものとして耳にすっと入ってきたのです。言いかえれば、黙読してしまうと難解とされる言葉も、俳優の身体を通して<読む〉とき、案外すんなりと体内に入ってくるのです。この体験はわたしには「発見」でした。

 他の芝居の洗練度に比べると、T'PCBの舞台は「すき間」だらけです。演技、演出は稚拙で荒っぽい。にもかかわらず、この上演にインパクトがあるのは、HMの「すき間」とどこかで響き合うものを感じるからです。刑務所での反復訓練の果てに身体が求めるHMの言葉に俳優たちがたどり着くとき、HMのテクスト空間には無数の「すき間」が広がっていることに気づくでしょう。観客はその「すき間」を自在に使いこなして言葉を食べ、想像力を広げるのです。


、、、さてさて、電話とかメールとか、いろいろしなくちゃなー。
そうそう、身体、ちょっと動かした。けど、もっと動かないとまずい。なんつったって、ほとんど机にかじりつきっぱなしなんだから、、、。

あ、親父にも電話しないと、、、。