錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

芝居を見ること、MSA、hmp「In der Strafkolonie」。

今日は芝居を2本、見た。
うれしいけど、疲れる。


「シアターアーツ」という演劇批評誌が届いたから、つらつらトイレで読んでる。
今回の目玉は「2005年・回顧」。で、いろんな人がコメントを寄せていて、その項目に「今年は何本見たか」というのがあって、劇評家と名乗る人は100本以上がザラで、なかには300本を超える人もいる。
、、、信じられない。
ま、それで食ってるんだからと思うが(実は、大学の教員と二足の草鞋の方も多いみたい)、まーなー。たぶん、土日に2本、平日1本くらい見てるんだろうけど、一般的に考えたら、それは時間もたいへんだし、なにより「かかる銭」もたいへん。ま、(安く見積もって)3000円としても、100本ならば30万だからなー。(うん? 招待券なのか?)
つーか、うちは、すなわち錦鯉タッタは2000円にしてたっつーのに。
(で、大赤字だよ、、、。)


なにより、頭が爆発しそう、、、。


さて、本日の観劇。
ディプラッツ企画の演劇フェスティバル「MSA、メンタリー・ショッキング・アーツ」に参加の2本。
「フィジカルシアター」と名乗る大阪の「hmp」の「In der Strafkolonie」。
「ダンスシアター」と名乗る「イマージュオペラ>>トリプティック」の3本立て。
(「地図の作成」「ベンツがほしい」「lovelorn longlost lugubru Bloolhoom」)


(なんか前置き多いんだけど)実は、MSAとはかなりいわくありげな関係。
昨年は「笛田宇一郎事務所」の公演に役者として参加したし、ほかのも数本を見た。一昨年はなぜか「MSAの劇評を書いて」との依頼を受け、フェスティバル通し券だけをもらって(やってる側の身として「すべて見る」を原則にしなきゃ、と律儀に考え)すべての公演を見て、簡潔で明瞭な批評文もどきを書いて、小冊子「カットイン」に掲載された。
(一昨年はつらかったなー。俺に劇評は無理、と痛感した。あんなのマジにやってたら、頭こわす。ま、ある意味で「鈍感になる」というのが劇評家になる素質と資格なんだとはっきりわかった。)


むー、前置き、終わり、、、。
さて、「hmp」。


カフカの「流刑地にて」と「審判」を原作としたものらしい。
パンフレットを見るとドイツ語で「言う」「聞く」「飲む」「見る」「におう」「歌う」「読む」「話す」「亡く」「食べる」「おぼえる」「呼吸する」「考える」「噛む」とある。たしかに、そう言われれば、それを思わせる動作がひとしきりやられていたような、、、。
主人公である人物はまずはじめに「私はKであり、ザムザであり、、、うんぬん」と宣言する(すなわち、カフカの小説の主役たちを列挙する)。パンフにあるネームの通り、彼(実際やってるのは女の子になんだけど)は逃げているらしい。日曜日から土曜日と表示されることによって時間が区切られるなか、セリフというよりもマイムらしきものを中心にして時間は進む。K以外の6人は衣装変えを含めながら、複数の役を担う。そしてまた、パンフにあるように、Kを含めた数人は満員電車に乗り(乗せられ?)、たどり着いた先は収容所らしきところで、ガス室を模したシーンがあり、彼らは光のシャワーを浴びる。
セリフは「流刑地にて」の有名な「殺人機械」の部分などがあるけれども、ほとんどない、と言ってもいいくらい。


率直にいって、いろいろやっている。創意工夫といえばいいか。
手間もかけている。
やっていることの多様性は分解してみると、とても多い。影絵、上からの落下物、本来の客席を舞台として使用していもうこと、日本における三種の神器の装い、引き戸にも奥にも開く扉、滑るように動かすことのできる机、同様に移動することによってさまざまなアイテムと化す3つの覗き窓、さまざまなマイムの手法、多くの衣装(打掛もあった)、これでもかというように出てくる小道具、、、。歩くこと(ストアハウスカンパニー)、物の叛乱(OM2)、机にカリカリと筆記する(カフカ、ロバート・ウィルソン)、ハイナー・ミュラーを想起させるセリフ、、、。こちらが言えないだけで、かなりの引用がされているように思える。勉強してるし、研究してる、、、。


それは敬意に値する。
ただ、やりすぎ。
つめこみすぎ。
「やりすぎ」「つめこみすぎ」、すなわち、過剰が悪いわけではない。それはいい。好みによるだろうが、俺は「やりすぎ」を好む。ただ、今回の公演では「何が大切なのか」があいまいになっているように思える。
セレクトする、限定してみる、やらないでみる、切る、、、ということから生まれることは案外と多い。
もちたろん、過剰・余剰はよい。ただそれは「やらざるをえない」「やらないではいられない」が突っ立ってる場合に限る。
まずはそれ、なんだと思う。


演出(構成もしている)ががんばっているのは前述の通り。
同様に、俳優たちもがんばっている。のんべんだらりとやっているわれわれ(ま、俺のこと)と比べると、シャープに、そつなく、演出から要求されたスタイルを正確にやってのけている。
けど、なんか、俳優が見えない。
俳優が目立つ演劇じゃないんだ、ということなのかもしれない。けれど、俺はそこ(俳優)に興味を引かれる。それに、同じ歩くにしたって、誰が歩いたって同じなわけじゃないのはいうまでもない。(歩くことひとつをとっても千差万別だ。)興味深い、謎のある人間(物体)がいることにこそ演劇の価値があると思っている俺としては、それは致命的だ。そこは傾向性のちがいも大きいだろうけども、それでも、俳優に対しては不用意、というか、方法論が不足しているように思う。


ただ、唯一、Kだと名乗る主役の女優は目立つ。もちろん、主役だからというのもあるのだけれども、それ以上に、彼女は演技的に浮いているんだと思った。マイム的なものを多用するこの上演のなかでも彼女のマイムの技量はかなり高い。その技量の異様なほどの高さが(それについての彼女の自負が)彼女を個として立たせている。「どうよ」とでも誇示するかのように続けられる彼女の演技はある意味で鼻につく。けれど、個が消されているかのようなこの上演のなかでは、それがよい効果をもたらしている。
プラス、もうひとりめだつ俳優がいる。以前、「メディア」かなんかをやったと記憶する女優だ(まちがっているかも、、、)。彼女が目立つわけは明瞭。ひとりだけかなりの量の長ゼリフを(それも数度)しゃべるからだ。けど、彼女は(今回は)それほど素敵には見えない。それは彼女の問題、というよりは演劇の構造の問題だと思う。


おそらく、変容過程なんだろうと思う。


あー、他人の芝居を見ると、勉強にもなるけれど、自分事ととして手痛く我が身に返ってくるなー。
(今日の分はもう終わり。イマージュオペラについては、また明日。)