錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「好きにやっていいよ」からはじまった話、自主稽古、などなど。

しばらくぶりに「用事」のない日。
(ま、仕事はたまってるんだけど。)


運動する。
運動の種類にもよるけど、頭を使うことも多々あり、なかなか勉強になる。
(つーか、まいど書くのもなんだけど、まる1日、机に向かってるみたいな感じだから、ホント動かないとなー、って感じ。)


千賀ゆう子プロジェクトのドラマリーディングが週末にある。案内をもらってら、招待がついてた。
今回はちょっと行けない感じ。
で、最近、芝居に興味あるという人がいたので、マチェックに招待状を預けにいった。
すると、マチェックの隣に店(?)を開業しようとしている人が常連客とビール飲んでた。
せっかくだから、、、と少しのつもりで話すと、これがなかなか楽しい(意義深い)話になった、、、。


そもそもの発端話。
開業する彼がある彫刻家と知り合いになる。2人は盛り上がる。内装も自らやってるわけで、彼は彫刻家にある柱の彫刻を「好きにやっていい」という話で任せる。ところが、できつつあるものは「すきにやっていい」といいながらも「それはないでしょ」というスタイルなもの。「好きにやっていい」と言った手前、彼は悩む。悩んだ結果、「それはやめてくれないかな」という話をする。
、、、こんな話。


「好きにやっていい」という場合、たいていの人は(逆に)セーブする傾向がある、という話が出る。「好きにやる」のはけっこうむずかしい。「こうして」と言われたほうが、その対抗(反応)ということも含めて、優れたものができやすい、という話も出る。そもそも人間の行動(営み)は対抗(反応)であり、それがどちらからはじまったは実はそれほど判別できるわけではない、という話も出る。同時に、少なくとも表現というのは本来的に「好きにやっていい」ものであるけれど、にもかかわらず、それなりの慣習(常識)というものが(制度として、意識として)ある。で、「それを破壊すればいい」というタイプの人もいる(表現もある)、という話も出る。(具体的には、舞台上でウンコをするという行為をしたグループがかってあったらしく、その話。)
マチェックという喫茶店で行われた数々の展示(インスタレーション)でも、たいていの人は「ここは喫茶店であり、客が来るところ」というところははずさない、という。ただ、数人、客が違和感をもつことを意図している人もいたらしい。(具体的には、一面に敷かれたサンゴ、「これ、踏んでいいの?」。そして、頭に当たるくらいの高さまで垂れ下がっている棒状のガラスたち。)パフォーマンスとして、カウンターの上で「ただ寝てる」というのがあったらしく、さすがにそれはランチの時間はやめてもらったらしい。


「嫌がられたい」「(常識を、制度を)破壊したい」という欲求から生まれる表現はたしかに、ある。かなりある。それは珍しいことでも、新しいことでもない。
ジャンルと質をおいて列挙してしまえば、古くはデュシャンの「泉」、赤瀬川らによるハイレッドセンター寺山修司の一連の演劇、、、より俗的にいえば、芝居上での客いじりや、さらには、テレビでの客・出演者いじりなど、「嫌がられたい」「(常識を、制度を)破壊したい」表現は(むしろ)いたるところにある(くらい「ふつう」だ)。


ならば、、、と話は進む。
「どんなウンコ」かが問題なのだ、と。つまり、「質」の問題。ま、妥当に話は進む。
そうなると「よけりゃいい」という話にしかならない。つまり、個別の問題。(「いいのはいい、悪いのは悪い」って、スネークマンショーで流行ったなー。)これも妥当。でも、話は続かなくなる。


われわれがいまやっている稽古である(そして、われわれの知り合いでは少なくないチームで導入している稽古でもある)「自主稽古」というスタイル。それはすなわち、「なにかを他人の前で好きにやってみせる」ということなんだけれども、これも同じ問題をかかえている。
「好きにやれない」「やることがない」「やる気になれない」「好きにやってみせてもたいしたことない」「らしくつくりすぎ」、あるいは「やってなんの意味があるのか(上演にどんなかたちで結びつくのか)」「好きにやったことに、あらぬ批評が必要なのか(いらないんじゃないのか)」などなど、うんぬんかんぬん。
個人的見解をいえば、「やることなどない」、んで、「やることなんてなくなったスッカラカンの状態から何が出てくるか、が自分にとっても他人にとっても問題」ということになる。「好きにやる」ということでいえば、嫌いなものはそもそもできないし、人が嫌がる方法をあえて導入するほど物好きでもない。(結果的に、人から嫌がられるのはまた別の話。)自分の内面の発露、なんてのはないし、好きなものの発表をしたいとも思わない。とはいえ(だからこそ)何か(ブツ)がいる(必要)ということになる。それは内側から来ているのか、外側から来ているのか、は俺には判断がつかない(し、つける必要も感じていない)。


0M2のところでも書いた気がするけれど(実際に書いたかは不明)、そこの上演中で大きなウエイトをしめる佐々木という俳優は(俺からすると)現場で自主稽古をやっているようにみえる。2003から04にかけては赤のドレスを着て、自分で空気を入れたビニールの立方体の中で「ハムレットマシーン」のセリフを喋ってた。ついこないだは、いじめられて虫を食うというセリフを(おそらく本人ではなく作家によるものだと思う)喋ってた。これはもちろん外部からの言葉・言語だ。けれど、どの程度正確に喋られているかということも含めて(繰り返しなど、確実に元テキストに対して正確でないところはある)、彼のなかから発せられているようにしか見えない、聞こえない。
おそらく、大きな段取りははずしていないのだろうと思う。けれど、毎回、そうとうちがっているんじゃないか。、、、そんなのあたりまえだし、ふつうだよ、芝居だろ?、、、そう、俺も思う。プラス、そこでは本番と稽古、台本稽古と自主稽古、のちがいもそれほど大きくない。それもふつうだろ、芝居なんだから、、、確かに、ただ、その「ふつう」で「あたりまえ」をやってみせる(他人に対してだけではなく、自分に対しても)のはそれほどかんたんではない。