錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

演劇会議、自分事としての参加、相互批評、民衆演劇、言説化、稽古。

これをサボル習慣がついている。
終焉の予兆?
現在は7月2日(日)。
昨日、ハードなことがあった。
またまたしばらく書けない、かも。いきおいで追うことにする。
まずは、26日の日付を借りて、25日の「演劇会議」から。


いろいろ「演劇」は隆盛しているみたいだけど、いまの現状(自分たち)こんなんでいいの?、、、ということを個別問題点はちがうながらも、自分事としてとらえる現場の人々によるナニカを志向する集まり・会議。少人数ではあるが「批評」を現場にしている人もいる。
1年半くらいにわたって、数もこなしたきたものの拡大版。


具体的にいえば、明瞭な進展はなし。(初参加の方が多かったせいもある。)でも、そのイキヅマリのなかで、ずいぶん明瞭なものが見えてきた気がする。くやしい、というか、なんだかなー、と思うところもあったけど、やはり経験豊富な「重鎮」の発言は気が利いている。
ただ、それぞれに切り口があるわけで(もちろな俺も)、その雑多さと、それぞれの明瞭さが露わにならないかぎり、既存の組織があるのにもかかわらず立ち上げる意義は少ないと思う。


いつもながら「(自分とは)遠いなー」という感覚がまずあるし、かつ、大きいけれど、そういう「逃げ方」をしていてはダメなんだという意識をさらにした。
、、、これは俺の問題なんだ、、、。


合宿の疲れというか、そんなのがピークで、その場にいるのもキツイくらいで、終了後の歓談タイムもそこそこに最初に場をあとにしたくらいで、会議中もまったく発言しなかったのだけれど、やはり思うところは多く、「自分事としての切り口」を明瞭化すべし、と肝に銘じることにする。


概念的にいえば、やはり相互批評が必要なのであり、それは近辺にいるからこそ緻密であるべきだあり、すなわち批評そのものが「高度」であるべきであり、関係性・連動・運動、それも民衆演劇的な観点が必要だ、ということになる。
こんなんじゃ(自分でさえ)わからん、、、という話になるだろう。
だけど、今日はここまで。
具体的な話はわれわれの上演(芝居そのものと、上演スタイルそのもの)のなかに煮詰めていくことになるだろう。
そのためには、この会議の首謀者のひとりの方がよくいう「言説化」を自分なりに自分事として(具体的に)提出いるしかない。そして、それはわれわれの稽古に直結するはずだ、と思う。


あー、わけわからんし、中途半端。
でも今日は終わり。