錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

告別式の日。(芝居がらみを中心に。)

告別式の日。
あまりにもたくさんのことが密度高く起こったので、ここですべては触れられない。(伊丹十三が「お葬式」という映画を撮っていたけど、葬式という1日を使えば、フラッシュバックということも入れて、じゅうぶんに1冊の本が書けると思う。)


起きて、着替えると、もう人々は参集している。多謝。可能な限りの軽めのあいさつと(ていねいにしてると時間があまりにも足りなすぎる)、やらなければならない葬儀社との事務的な確認、渡された「遺族代表あいさつの基本フォーマット」に数点のメモを加える。覚えなきゃならないんだろうけど、それは無理。ま、なんとかなるだろう、こういうとき芝居の経験は(はっきりいって)役に立つ。
芝居と同じじゃん、と思ったことをもうひとつ。告別式がはじまる前の、あわただしい一瞬、トイレに入る。もちろん「大」のほう。ふう、と、ひと息。ありゃ、これも芝居開演前のいつもと同じじゃん、、、。


式は淡々と進む。
「お別れの言葉」を述べてくれた故人の友人には特に御礼を言いたい。
ありがとうございました。


芝居がらみで言えば、昨夜の通夜は副住職が読経を担当した。今日は住職。昨夜、朝方まで飲んだときも話題になっていたんだけど、やはり「お経のうまへた」はあるな、と実感。住職は身体の調子が悪いので、通夜には来れなかったんだけど、そして、それを思わせるように以前の声の張りもないし動きにも精彩がないんだけど、やはり、いい。途中で(たぶん、だけど)とちったりもして、素人の俺でも「あらら」と思うんだけど、やはり、ちがう。同じ言葉をしゃべっても誰がしゃべるかによってまったくちがう、正しくきちんとしゃべれば伝わるなんて単純なことではない、、、いつも稽古場で口をすっぱくして言ってる(思ってる)ことを再認識した時間だった。火葬場で住職と隣り合い話しているときに、その話題を出すと(朝の段階で「きのう副住職はどうでした?」と向こうから聞いてきたのだった)、「やはり年かな」みたいなことを言っていて、納得。いつも「死にかけの爺がアアとかぼそい声を出し、腕を少しばかり上げたら、それはもう感動するしかない」と思っている(実際に何度も口にしている)とはさすがにその場では言えなかったけど、近くで見るとやはり(少なくとも20年前よりは)耄碌している住職はやはりすごかった。酒を勧めると照れたりして、かわいいところもあいかわらずよく、ただ、一瞬にすごくなる、、、芝居というものはこういうものだ(こういうものと接しているんだ)と強く思った。もちろん、年寄りがやればいい、というものではない。これ、年(経験)の問題だけど、年(経験)の問題じゃない。
遺族代表あいさつのとき「やろうと思えば、カンタンにこなすことはできる」という状態にある、これは芝居やってるお得な部分だ。でも、それはすぐに反転する。ゴミのようなあいさつというのには見飽きている。それは大雑把にいえば、「慣れている」奴がスラスラとしゃべるということだといっていい。時に、咳こもりながら。あるいは、時に、目頭を押さえながら。渡された1枚のコピーを見ないことが重要でもなく、逆にとつとつとすればいい、ということもない。果たして、うまくやれたのだろうか。たぶん、うまくやれた。頭をカラにして、ひとつひとつ自分の言葉として言えた。礼を失しないように、途中でなんどか紙っぺらを見ながら、、、。でも、うまくやる、というのはどういうことなんだ?という、芝居をやってる根拠みたいなものの謎はさらに深まった、と思う。
視線、呼吸、こまかな仕草、、、すべては芝居と同じだ。(すべては演技として解釈されるし、演技として行わざるをえない。)それに慣れずに(実際の上演であれば、何度も)やってのけられるか、、、芝居はひとつの「儀式」だし、儀式もひとつの「上演」だ。そして、ふだんの生活も、それと無縁なわけじゃない。


もうひとつ。
身体の動きは(心の動きも含めて)制度的である(すなわち、人がやっていることは、その人の意識下にはない)ということは、ふだんから思ってるけど、こういうときに圧倒的に見せつけられる。
具体的にいえば、女は泣く。男は泣かない。
ちょっとこわいくらいだった。悲しいから人は泣くのではない。泣くという行為に社会的関係的ななにものかが含まれている。男が泣かずにふるまうのも同様。ふだんの稽古でも「うちまた」とか、無意識になされる個々人の仕草に留意すべし、と繰り返しているけれど、葬儀のような場では(個々人の癖ではなく)社会的な身体の制度性がこわいくらいに露出する。もちろん、自分自身がそれを免れているわけではないことはいうまでもない。いわく、神妙な顔をしてみせる、泣かないけれど深く悲しんでいるような気分になる、、うんぬんかんぬん。
これ、まさしく、芝居をする根拠に抵触していることがらだ。そこをいかに意識化して、具体的に「別の」身体の所作として提示できるか、が問題なんだから。


出来事としては、まだまだたくさんあるけど書かない。
火葬された遺体がそのままのかたちで最新式高温度バーナーから出てくるのをはじめて見た。そのまんまのかたちだから、肉をつけて、細部をイメージすれば、生体状態をじゅうぶんに想像できる。ああ、燃やされた、と、さすがに実感した、その瞬間。これでフランケンシュタイン化は無理だな、と。火葬と土葬はホントにちがうな、と思った。
初七日もこの日に済ませ、精進落としでもあいさつ、さらに、テーブルをまわり、個別にあいさつ。
さらに、帰るみなさんにあいさつ、あいさつ、あいさつ、、、。
実家に戻り、香典の勘定だけ済ませ、軽く、会計を見積もって、深夜近く、自宅に戻る。
あたりまえだけど、銭がかかる。もらえる銭ももちろん多い。芝居よりもよっぽどかかる。ま、まさに「蕩尽する」ための場だからそれもいいんだけど。残ったものの家計にひびくことがないレベルでの赤字は想定内だ。しかし、銭の感覚は麻痺する、ホント、こわいくらい。
さて、最後にお決まりのひと言を。
(「お決まり」がいかに大事かと納得させられた数日でした。)


いい葬儀でした。
こんなときに人柄って表れるよな、と思いました。
冥福を祈ります。