錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「身体を機械として見る」こと、から。

芝居のテキストを、、、、。
との焦燥感ばかりが募る。


だけど、その前に仕事を、、、。
(銭・生活問題はなんてリアルなんだろう。)
遅らせてもらっていたものをさらに遅れて、、、。
そもそも、まだまだ眠いし。


仕事して、バタンと倒れ、寝て、、、の数日。
ま、先週は3日くらいほとんど寝てなかったもんな、頭と身体もフル回転させてたし。
身体を機械として見ている俺としては「しばらく動かさない」というのはもっともなことだしな。


「身体を機械として見る」というのは芝居をやるさいに、とても重要視している。
なかなか人にはうまく伝えられないんだけれど。
身体が制度的であらざるをえないこと、とこれは密接に関係している。
「身体を機械として見る」には、細部を個別具体的に分析する、自己意識の表現として身体を見ることに疑義をはさむ、ということ。
「思いの表出が表現」みたいな軽く、頭悪いノリから離れなさい、、、ということ。
その意味で、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」はとてもリアルだ。
別の意味で漱石の小説(最近、読んだものならば「行人」)も。意識外に身体は表出される、思っていることとやってることはちがっている、、、ということ。


グリーナウェイの「デッサン画家の契約」を見直し、ジュネの「女中たち」をゲットしなければ。