錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

看病と花田清輝、武富健治「鈴木先生」、地獄行き(と生還)。

世界に戻ってきた、という感じ。


すなわち、銭を稼がなければ、食うことも、芝居をすることも、食わせることもできない、という簡明な現実。
ま、それはそれではっきりしていて悪くない。こういう「ゴミのようななかで」芝居をすることを20年以上前の段階で選択しているんだから。
知的で、優雅で、深刻で、きらびやかな芸術ではなく、、、底が浅くバカげていて、弱者が弱者を虐げる現場からしか立ち上がらないような、かつ、だからこそ、深みはないけど真実味を帯びてしまうかもしれない可能性を持つような、素人芸としかいいようがないような、民衆の芸術をこそ、、、と、選択肢し悪戦苦闘し続けているんだから。


河原者、、、なんてふうには思わないし、そんな言葉はさらさら使わないけれど、「芝居をしよう」と誘うときには「いっしょに地獄まで降りていこう」(少ない可能性だろうけど、新たなる者としてこの世に帰ってくることを信じて)、、、みたいなノリなんだよな、と思う。
ったく、我ながらタチが悪い。


これはこの日ではなくて、明日の日曜日に話した話なんだけど、「病気になったとき、看病してほしいか」という話題で「場合によっては、ほっといてほしい」とマジメに答える自分は「なんだかなー」と思う。
花田清輝という人が好きで、けっこう読んでいるんだけど、彼がどこかで「君には最終的に金を貸してくれる友人はいないだろう」と作家仲間に言われたというエピソードを書いていて、そう言われることにある意味で納得している自分がいる、と言っている。その文章を最初に読んだときもそれなりの同意をしたわけだけれど、いまさらになってそのフレーズが思い起こされる。
ま、こんなことを書いて「悦」にいってんのはやめて、現実的なことを考え、しよう。
だいたい、芝居のいいところは「即物的でないとできないんだよ」(考えたり、感じたりしてるふりしたってダメなんだよボケ)ということなんだから。
プラス、(考えが一致するということはありえない)他人を信じることからしか、、、他人に自らを投げることからしかはじまらない、ということなんだから。


そうそう、漫画アクション武富健治さんの「鈴木先生」が載っていたので購入した。今回のテーマは「昼休み」。
すでに「ある種の安定」(頂・プラトー)に達している。
やはり(言うのも恥ずかしいけれど)「継続は力」なのだ、なー。
彼は「微妙にぶれている」のがいい。(そこが好きな人は好き、引っかからない人は引っかからない、ということになるんだと思う。)
無駄(な表情)が多すぎる。そこがいい。どこまで意識しているのかはわからないけど(もちろん、作家は「意識してます」と言うだろうけど、それ以上に余剰がある)、それが深みとおかしみを与えている。


あ、明日は稽古だ。
だけど、稽古ではなくて「話」にしよう、と連絡を回した。