錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「ゆれる」と「わかる」と、イエス。

さて、映画「ゆれる」。
(このブログ、読んでる人は少ないだろうけど、一応ひと言。まだ見てない方は、、、。)


オダギリジョー香川照之。この順番、逆でもいいかも。
オダギリジョーのファンである俺でもそう思えるほど、香川は強烈。
いろいろと深いところがある映画だけど、まず第一に出てくる感想はそれ。
(プラス、誰もが感じる感想だと思う。)
映画は(芝居も)俳優・役者にかかる比重は高いところのがふつうだし、そんなのはよくある話だけど、ここでの彼は尋常ではない。「嗤う伊右衛門」とか、何度か彼を見ていると思うんだけど、「ま、悪くはないよね」ていどの印象しかなかった。この映画ではまさに「屹立」している。彼という存在にあらゆるものが吸い込まれていくような感じ。ここでの彼を「こわい」と表した人がいるけれど、ある意味で納得。(ただ、俺はなぜか上映中、こわいとは一度も思わなかった。)つーか、ひとつの「謎」として彼はある。これは上映後に思いついたことだと思うけど、ここでの彼はイエス(キリスト)に似ている。つまり、謎といっても「意味不明なもの」として彼はある。


さて、何が「謎」なのか、、、。
映画そのものが「謎を追う」という構造(物語)を持っている。すなわち、最初の段階で死んでしまう1人の女をめぐって、その死の真相を探る、というスタイルで映画は進む。


帰りにフロントを見ると「ゆれる」という小説も売ってたりする。帰宅後、2ちゃんで「ゆれる」を見ると(「通」な人が)さらにいろいろと書いてる。(でも、小説もパンフレットも映画雑誌も買わず、結局、2ちゃんもちらっと眺めただけだ。)
2ちゃんには「結局どーなってんの?」「小説にはくわしく書いてある」「話が破綻している」などなどとある。(例によって例による2ちゃんらしく、、、。)


上演後に思い出したのは「藪の中」。
2人の男と1人の女。凌辱と死をめぐる、関係者の言うことが食い違ってて、わからない真相。
「ゆれる」では、関係者の証言と行動がどんどん変化していき、それにともなって何パターンかの映像が想像的にフラッシュバックされる。プラス、最後の映像が真実だとは明言されない。


2ちゃんでは「真実はどーなの?」が話題になっていたんだけど、この手の「謎」をめぐる話はありふれている。そもそもちまたにあふれる推理小説は「それ」で成り立っているんだから。
では「ゆれる」では何がちがうのか。
これは制作者の意図とはちがうのかもしれないけど、真実を知っているはずの彼が「真実を知らない」ところにあるのだと思う。知らない、というより、そんなものに興味がない、というべきか。人が知らないうちに何かをやってしまっている、、、というのはそれほど目新しい知見ではない。(精神分析はそこに基づいているし、いわゆる悲劇もそうだ。)ただ、彼は「苦悩」しているようにもみえない。彼の目は(あれは特殊メイクなのか?)異常にふちどられていて、そのまなこに表情は存在していない。そして、うつろだ。特筆すべきは、彼の目がそうなるのは「女の死」によってではない、ということ。その前の段階からそうなのだ。つまり「女の死」が彼を変えたわけではない、ということ。すなわち(少なくとも彼にとって)謎は「女の死」ではない。
(発言と証言がどんどん変化していくにもかかわらず)彼は罪の意識によって行動しているように見えないし、改心しているようにもみえない。(面会室で弟に激昂しているときでさえ)弟、あるいは何かを恨んでいるようにもみえない。ただただ、「どうしてこんなふうになったんだろう」「どうして俺はここに(この世界に)いるんだろう」ということを、頭で、ではなく、身体全体からうつろな湯気を立てるかのように、(細胞そのものが)考えているようにみえる。


彼は幽霊(ゾンビ)みたいにみえる。


少なくとも俺には彼が理解できない。理解したくないし(制作者や優れた見てから)わかったような説明を加えられても納得しないだろう。その不可解さこそが彼をリアルなものにする。魅力ある存在にする。まったくちがうんだけど、自分自身と隣接するものとして。


映画のラストで彼は笑う。
意味わからない。
そもそも、その場面で、彼がいつ「自分を呼ぶ弟の声(存在)」に気付いたのか、それさえわからない。小説を読めば気持ちが書いてあるのかもしれない。でも、そんなの、彼自身にだってわかっちゃいない、んだと思う。
それでも「笑い」というもののなかには説得力がある。おそらくその表情は基底的で、どうしようもない(ときに、してしまわざるをえない)ものなんだと思う。


、、、うまく書けない。そのうち、書き直そう。
そもそも、この話は「芝居づくり」と直結している話なんだから。


軽く流すけど、この映画、けっこうよくできている。
まず出演者がいい。「いい俳優」がでているんじゃなくて、個々の「まともな演技」がそこにはある。たとえば、伊武雅刀
物語的な構図が明瞭。たとえば、2つの兄弟、とか。洗濯ものを干す、とか、畳む、とか。
映像もくふうしてる。たとえば、音の消え方、とか。


ガッツ石松がテレビで亀田興毅の試合の話をしていて「素人のみなさんが思った第一印象、それがむずかしい話なんかおいておいて、正しい結論なんですよ」みたいなことを言っていた。芝居のいい悪い(おもしろさは)誰が見てもわかる、と基本的には考えている俺としてはかなり納得。ただ、「わかる」ということって何だ? 「わかりかた」が問題なんだよ、、、とひとりごちる。


そもそも「ゆれる」見て、混んでいる会場で、若者ばっかりで、「こんなガキどもにわかるんかよ」とつぶやいたのも事実。「わかる」という話は奥が深い。
たぶん、理解できないものを自分事として引き受ける、というなかにしか、「わかる」ということはないのかも。(あ、なんで「イエス」を思い出したのか、書くの忘れた。でも、へたな説明するよりもいいかもね。)