錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

昨日に続く、ストアハウス。

昨日に続き、ストアハウスへ。
その前に仕事の打ち合わせも。
うー、出ていることばかり多くて、仕事が、、、。


今日は上演を2つ観る。
日本の「ストアハウスカンパニー」と韓国の「フラワー」。


根本的なところでだいぶちがっているようでかなり興味深く見れた。
それ以前に、双方への感想はあるんだけど、両者の構えのちがいが、とくに。自分たちがやっていることとのからみ(つながってるところ・つながっていないところ)を意識せざるをえなかったせいだと思う。
ストアハウスカンパニーはかなり整序・洗練されたものだった。もう4年ほど続けて観てるけど、整序の精度でいえばピカイチかも。以前から使っていた手法を多く使っていたこともあるんだけど、もちろん展開させていたかたちで。
きょねんはあまり思わなかったけど、生演奏がかなり効いていたし。
あと、同じようなことをやるからこそ、個々の俳優のちがいがより明瞭になる、、、ということは自分事としても実感あるし、彼らの手法はまさしくそれにもどづいているんだけど、それもいつもより強く意識したかもしれない。はじめての参加という女性の演じ手はなぜか強く印象に残った。「顔がよく見える人」とそうでない人がいる、ということも関連しているのかもしれない。たいてい、顔をよく見たい、、、と強く思うほうなんだけど。ま、いま、余裕がないので多くは書けない。


余裕がないので、、、韓国のグループは上演を観ると、昨夜のワークショップがなんとなく理解できてくる、とだけ。あと、記憶しておくためにメモを羅列しておこう。
伝えたいこと(もの)があるかどうか。
なにか(あるもの・こと)を表現したいのか。
自己意識の最たるものは、それがはぎ取られ、無名化したところで(もしかしたら)浮きでてくるんじゃないだろうか。
しゃべった言葉・やられた動き・舞台上で意味として提示されたさまざまなブツ、、、これらはもちろん大切だけれど、それらを並べただけで「なにか」が舞台上に屹立することはあるんだろうか。


、、、こう書いていると、韓国の彼らに思うことは、わが(錦鯉タッタの)稽古場で思うこととかなりつながっているなー。
とりあえずの稽古場での俺の発言は「それをつきぬけたところ」にある。自分を、自分の自己意識のを、自分の言いたいことを、、、。(自主稽古って、そのために・突き抜けるために、やってるんだよなー。)


ささ、明日は我が稽古。
あー、もう頭も身体もくたびれてる、たのしーんだけど。
あ、明日は独火星の初日じゃねーか。
雨か?