錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「その場で死ぬこと」であり「その場で生き返ること」。

フィジカルシアターフェスティバルに行く。つまり、またまた江古田へ。
チラシを入れに、ワークショップに、公演を見に2回、今週は総計4回もあそこに通ったことになる。うー、関係者みたいだー。
ま、いいことも多いからいいんだけど。行かない日にはもちろん稽古がある、、、。


さて、今夜は2本。
日本の「アリカ」と、ロシアの「ブラック・スカイ・ホワイト」。
自分たちの稽古で頭の余裕がないので簡潔に書く。


アリカ、ワークショップでの印象や、ただひとり出演者の女性が元「転形劇場」という噂から、もっとちがったものを想像していた。かなり、ファンキー。美術・装置がそうとう大きな役割を果たしている。遊び心・批評的ノリ満載。コラボレーション、というか、かなり装置(ブツ)が幅を利かせている。その点だけをとれば、自分が親しくしている「劇団どくんご」の手法と通じているところがある。(その点以外はまったくというか、ずいぶんちがっているんだけれど。)
けれどやはり、重要なのは彼女。演じ手が彼女でなかったら、あれはそうとうちがっていたはず。
パワフルで繊細。(けなしではなく)若くもなく、美人でもないのだけれど、ハッとする瞬間が何度もある。


ロシアは、、、。
圧巻、のひとことに尽きる。とくに女性。男と女の2人の無言のパフォーマンス(踊り、といっていいのだろうか、嫌、、、)が大音量と「それらしい」照明のもとで延々と1時間休みなしに続く。
彼も悪くない(つまり、いい)んだけど、彼女は圧巻、圧倒的。
全体の構成やノリなど、好き嫌い(悪い、という人は少ないだろうけど、そんなに好きじゃない、という人はいるかも)はあるだろうけど、ブツクサ言わせない「力」が彼女にはある。
あれは個人的才能(身体的な特徴も含めて)もあるだろうけど、かなりの練習のたまものだと思う。
「芸」というものにそれほど価値をおかない俺も(うまけりゃいいのか、といいがちな私)とにかく口をあんぐりあけるしかなかった。素晴らしい。芸は、ここまでくると芸じゃないんだな、と思った。
こないだの錬肉工房での笛田さんもそういうところがあった。「うまくて、すごい」ということが圧倒的な価値である場合はたしかに、ある。継続して、芝居とかに関わるものはどうしても「うまく」なってしまうんだけど、半端なうまさは「素人の突飛さ」に負けちゃうことも多々ある。だけど、うまくなっちゃう。だからこそ、自分なりの「強烈なうまさ」を身にまとわなくちゃいけないんだよなー。あ、そうそう、玉三郎を何度か見たんだけど、あるときの「あれ」というセリフと、フラリとよろける仕草もそうだった。大野一雄を見て、なんだたいしたこないなー、と思い、少しがっかりして、アンコールでの一瞬、彼が「ゆら」と動いたときもそうだった。それはおそらく「死にかけの爺が目の前の人間に向けて(もう見えてないのかもしれないのに)手を伸ばす」そんなものに近いんだと思う。いうまでもなく、そんなものは再現できるはずがない。
でも、それを再現させようとする、再現させようとあがくことが、芝居なのだ。
それはつまり、「その場で死ぬこと」であり「その場で生き返ること」だ。
そんなの無理だ。だけど、それがたまにある、のが芝居のいいところなのである。たいていはくだらなかったりするんだけど、、、。


あー、どれもこれも、自分ごと。自分たちごとだ、、、。