錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

かなりむつかしいことを実現するには、明瞭さが必要。

朝、荷物を受け取る。宅配便。
テントで旅をしていると、公園なんかに建てたテントにも郵便は届く。
それと似た感じ。


きのうに続き、ひとり、カラオケへ。
(そっか、この1時間は劇場の外にいたんだな、、、。)
帰ると、作業の続き。劇場整理、舞台の細部をつくる。
スピーカーも(なんとか)使えるようになる。けんたくん、さとうさん、御苦労さまでした。


衣裳も届き、衣裳あわせをする。
今日の夜の通しではメイクもすることにする。
いままで「あったふり」をしていたものもそろえるよう確認する。
歌の練習をする。


舞台監督のおがわくん、衣裳のかよちゃんが到着。
音響のかざおかくんを待ち、来た途端、急遽の音あわせ。30分くらいでやる。(というか、やったことにする。)
さて、音・明かり入り、衣裳を着てメイクもして、の通し。


きのうの昼は1時間40分。今夜は1時間38分。
先週は1時間半だった。ただ、きのうの昼は長く感じなかった。流れていたせいだろう。
今夜は中盤(ソロシーン)が少しもたついた感じ。でも、前後が逆によい。衣裳の着替えなんかで、うまく集中できなかったこともあるのかもしれない。
無闇に詰めても、、、と思い出した。1時間32分あるいは30分、と見積もるみとにした。
「細けぇー」と言われそうだけど、芝居は(とくに、われわれの芝居は)時間が読めるし、時間は芝居の集中の高さをみる、いいものさしなのだ。


時間が遅くなったため、はしょってダメだし。そうなんだよね、この時間が削られるのがとても痛い。プラス、とても損。俺にとっても、役者にとっても、、、。
公式としての全体話を終了したのち、飲み、話す。
今夜はけっこうたくさん残った。明け方まで、6人。
かなり、突っ込んだ(芝居の)話もできた。


言うことが矛盾している、そうとうむずかしい(無理っぽい)ことをやろうとしている、、、ということを言われる。先々週、「あの部分は台本が悪い」と言われたところがある。それには「それは承知で、わざとやっている。だけど、これは文学じゃないし、そこを演劇としてなんとかすると見えるものがある」みたいなことを言った。それも改めて、説明する。
かなりむつかしいことをやろうとしているのは事実。
見てくれたおがわくんが「今日が初日でも見るに耐える。じゅうぶんに客を楽しませられる」と言った。身内だから話半分にしておくけれど、俺もそう判断している。
でも、その先、その奥の話なんだ、ということ。
かなりむつかしいことを構想するのはカンタン。やりたいって言うのはカンタン。でも重要なのは、それを実現・実体化すること。そのための具体的イメージが持てて、方策を稽古としてとれるかどうか。かなりむつかしいこととはいえ、逆にそれは「演劇の本質」としてはとてもシンプルなものだと考えている。舞台に立つという恐怖、それを見て感動してしまう(畏怖してしまう)のは何故か、ということ。
舞台に立つとは他人(死者)にのりうつることだし、そんなのは不可能で、でも不可能なことが怒る契機は演劇にはある。それは慰霊だし、慰撫だし、祭礼だし、、、だから(客にとっても)それを見るのは(それに参加するのは)とてもこわいことだし、勇気のいることだ。


誰が見ても(あんまり芝居なんて見ない人でも)いいものはすぐにわかる。
極論すれば、いいものは「顔に出る」から。
そこまでいくと「うまい」「へた」は関係ない。(逆に、そこまでいくのには「技術」の問題がとても重要だし、やるほうにとっては技術の問題しかない、といってもいい。)
OM2の佐々木さんがいいのも「顔に出てる」から、「顔がいい」から。
われわれもおんなじ。


あと5日で浸透度がどこまであがるだろう。
自分で自分に驚いてしまう、という、身体が震えてしまう状態に近づく役者が何人出るだろう。
芝居なんて、らしい本があって、らしい演出がついて、らしい音と明かりがあって、セリフが入り、段取りが決まり、らしい演技が定着すれば、、、ま、おもしろいものができる。
(実際はそこまでいけばたいしたもん。)
でも、だけど、問題は(たのしみと恐怖は)そこから、であり、その先なんだよなー、、、。


かなりむつかしいことを実現するには、明瞭さが必要。
「やりたい」ではなく、「やれる」か「やれない」か。
「やりきる」強引なまでも、力と気があるかどうか。


それには「細部」が大切。
ものごとは、とくに芝居においては「細かいこと」にすべては集約される。
微分された時間に対する感覚、の話。