錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

相互批評。運動。演劇。見て、見られて、なんぼ、それがはじまり。

夜、北浦和の喫茶店マチェックに行く。
芝居の宣伝のため。


ところが、独火星の親分や役者B、いろいろと今回も世話になっているWさんなんかが、来年「韓国マダン劇」を全国ツアーさせるための会議のため、飲んでいる。(つまり、俺が行ったころは会議は終わっていたんだろう。それとも飲みながらの会議?)
加えて、以前、芝居に出でもらったこともある(いっしょに芝居やったことのある)美術家の堀部先生の絵画教室もあったみたい。最近マチェックの常連さんで絵画教室の生徒さんでもあるKさん、衣裳やってくれているかよちゃん、錦鯉の前身のグループTPCBの2000年の公演に出てもらったAちゃんなどもいる。


宣伝のため、も、どこへやら、「おまえの芝居はわからない」「俺は運動をつくろうとしているんだ」「おまえらの芝居は何がいいたんんだ」などという素敵な言辞を聞きながら、そんな話がまんざらでもない(どころか、とっても好きな)俺は焼酎を片手に「俺もとうぜん運動を意識している」「わからないものだから興味わくんでしょ」「言いたいことなんかあったら芝居なんぞやってない。でも、あえて単語としてあげればチラシにも書いたように、貧困と階層と日本」と言い返す。過去にすでになんども交わされた話なこともあり、険悪な話にはならないんだけど、「マダンにおまえも協力しないか?」という話とともに、「運動」の言葉が出ることは現在きわめて大切なことであり、俺自身にとっても必要なことだ。さらに重要なのは、「正直、おまえらの芝居わかんないんだよ」の言葉のあとに、「真面目に相互批評をする必要があるんだよ、俺はそういう場をつくるぞ」と宣言していた人がいたことで、俺もそれには完全なる同意を示しておいた。
そもそも、俺が前衛演劇者会議なるものに参加しているのもそれ(相互批評)がためであり、いま、まともに足りなくて必要なのはそれ(相互批評)だろう、と本気で思っているからだ。
でも、少なくともこの2日は、来ない。見て、見られて、なんぼだろ、そこからがはじまりだろ、、、と思うのだけれど、それは俺がアホなだけからかもしれない。
そういえば、そんなことをいらついた月曜に、制作を少し手伝ってもらっているWさんに「愚痴まがい」と明記してそんなメールを送ったんだった。けど、そこに嘘もない。見て、見られて、なんぼだろ、そこからがはじまりだろ。で、相互批評だろ。
俺がやるのは演劇。運動じゃない。でも、俺がやる演劇は運動と無関係じゃないし、運動と無関係な演劇ならば、そんなものに俺は興味はない。でも、俺がやるのは演劇。
たしかに俺が(われわれが)やる演劇はせまい。でも、せまさを実感し、体感し、身体として提示することができなくて、どうして他人とつながれるのか、どうやって他人とケンカできるのか。自らを不問にして(無条件にいいところにおいておいて)、外の世界とつながっていけるわけがない、というのが一貫した俺の立場だ。
その立場はきわめてせまい。それは重々承知している。でも、そこからはじめない人を俺は信じない。自分自身を筆頭にして。おまえは誰で、何者なんだ、と。で、何を言うのか、と。何をするのか、と。


もちろん、人の芝居を見にいくのはとてもたいへんなことだ。忙しいだろうし、時間も金もかかる。メンドクサイことも多い。
でも、そこからだ。


「相互批評」、よく言われるけど、実現されることが少ないそれをなんとかやっていきたいと思う。
そんな場をつくりたいと思う。


あ、そうそう。で、そんな話をしているあいだ、数人が「おもしろいらしいじゃないですかー、行きますよー」と声をかけてくれた。いろんな話はおいといて、そう言われるほどうれしいことはない。
お待ちしていますです、、、。