錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

稽古は中止。俺は家でうだうだとパソコンに向かう。ははは。

今夜は稽古の予定。
だけど、体調すぐれず、気分すぐれず、その他いろいろもあって、、、なにより体調を重視して、中止を決断。おー、すげぇー、勇気あるー。
ま、しかたない。


なので、いろいろと書いたメモからうだうだ書く。


よくできている芝居、だと思う。けれど、それだけではダメ。少なくともわれわれでは。
よくできている、ということは明らかな価値。それができていない芝居が横行する昨今、それはとても大切なこと。でも、それだけじゃダメ。少なくともわれわれでは。
でも、それができているということは自分たち自身で自信がもてる根拠になる。さらなる展開の根拠としては「よくできている」はとても大きな意味を持つ。


人はうまいものを見ても「うまいなー」としか、思わない。でも、圧倒的に「うまい」ものを見た場合、「うまい」とも思わず、人は感動するはず。ならば「うまさ」が足りない、ということになる。けれど、一定以上の「うまさ」には、人はカンタンにたどりつけない。国宝級の役者だって(いいときゃいいけど)いつもいいとは限らない。初舞台の役者がセリフを忘れて、顔を真っ赤にして仁王立ちしているにも目がくぎ付けになり、感動するみたいなことはしばしばある。でももちろん、それがいつもいいことはまったくない。


すぐれた役者は、いつも新たな自分を発見できる(技・方法を持っている)。いつも、新たな気持ちで、他人・世界に対峙できる、驚ける、うれしがることができる。ただ、そんな禅みたいなことをいまさら言ってもしかたがない、、、。


攻めること、アグレッシブにいくこと。サッカーでいうならば(知らない人にはまったくわからんかもしれんけど)、ポゼッション(ボール支配率)をあげるのではなく、デフェンスで、がしがしいくこと。余裕かまして、慎重にクロスボールをあげるのではなく、ちょい見くらいで一気にあげてしまうこと。ただ、最後の最後では余裕をかまして、コンマ数秒の判断をすること。「間」を使うこと。基本はがしがし。


自意識でありえないような自分が現出することを夢見ること。それに驚いて、恐怖すること。表現してるんだけど、表現でないものの領域に入ること、それを夢見ること。わからないけれど鬼気迫っているものに対しては、人は「それそのもの」として受け入れる。そんな、それそのもの、と化すこと。
真剣であることは笑われることだ、と心底から感じて、笑われることを望むこと。


細かい場面を流してしまわないこと。
ただ立ってる。
歩いてる。
寝てる。
食ってる。
細部にものは宿る。


自分の構えを信じて、人を真っ直ぐ受け入れるようにすること。
、、、われわれはその準備を十分にしてきた、はずだ。
さあ、いい気になって、大いにもてまくろうではないか。わはは。