錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「閾日記」より。(人様のコメント)

「人様のコメント」再開。
「閾日記」より、転載っす。

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自分の芝居のことをぼちぼち考え始めたせいか,他人のやっている芝居にいまひとつうまく対応できない。
自分にとって異物だと思われる「鹿殺し」とかについてははむしろ考えやすいのだが,自分たちの流儀にそこそこ近しい舞台表現に対する向かい方がよくわからなくなってる。
蜂蜜劇場につづいて今回は錦鯉。
役者たちに文句はない。よりベクトルを強くして欲しい思い(「もっと〜」)はあるけど,それぞれのベクトルの「向き」に文句はない。どの役者もいい役者であるし,ことにかずみちゃんの「傘」のシーンにはぐっときた。
ここで役者たちに文句がない,というときには所謂「自主稽古」で作られたと思われるモノローグのシーンに文句はない,ということにほぼ等しい。
ひるがえって,この芝居の時間の多くをしめる会話のシーンのほとんどには興味を持てない。物語の構造とかは前回よりも鮮明になっているし「物語読み」でない観客の一人と思われるわたしにもよく理解できる。でも「なるほど」以上の感慨はない。
なぜだろう,と数日考えた。
有り体に言うなら「テキストが悪い」もしくは「このテキストのままなら稽古量が絶対的に足りない」のだと思う。
私が興味を持てないのは,要するに言葉が役者によって支えられてない,身体化されてない(にもかかわらずそれが平然と舞台に投げ出されている)ということにつきるようだ。
より気になるのは翻訳調の強い「女中たち」テキストだが,だからといって「偶然の音楽」テキストがうまくいっている,ということではない。いずれも役者達が「言わされている」感,テキストが「あてがわれている」感が抜けない…というより11月の時よりも強まっている。
(この対話の「言わされている」感をあぶり出しているのはよき反証としてのモノローグのシーンだ。)
テキストは役者が立つためのテコ,道具だというのがアングラの発見のひとつだ。それが表現に刻印されているのがアングラ(もしくはそれ以降)なのであり,それが刻印されていないのは新劇(もしくはそれ以前)だと言ってみるか。レッテルはともかく,選ばれた言葉がよく役立つ道具でありえているかどうかは吟味されるべきだ,とは思う。
身体化されるということは,とりあえず台詞が身体に「馴染み」,所謂「よく演じられる」ということであってもいいし,それとは違って他者としての言葉が際だつような演技に結びつくこともあるだろう。(アングラがしたのは,新劇における台本と俳優の距離を変えることだったと思う。新劇が禁則にしているほどに近しいものとするか,距離を離すか。)いずれにせよテキストは俳優が立っていくときに役立つかどうか,必要か? ということがキイなんだと思う。
もちろん劇構造を織り上げるテキスト(物語)という側面があってはならないと考えているわけではないのだが,この芝居はその側面だけが見え,「役者にとって必要」な印象は(わたしには)持てなかったのだと思う。テキストと俳優の距離の話で言えば,新劇的な距離に感じたんだと思う。

現場的な話になるけど,ダイアローグを「自主稽古のように」作り上げていくことはものすごく時間がかかる。無駄も多く消耗感がある。なかなかやりきれることではないがゆえに対話は誰かによって「書かれ」,俳優によって「演じられる」というスタイルになりやすい。
結果,モノローグは俳優の個々の魅力のショウケースであり俳優の表現に,対話は物語なり主題なりを進行させるシーンであり作家・演出家の表現という奇妙な棲み分けが発生する。
をを!
そんな流儀にほとほと飽きが来ている私を発見!
既製のテキストであるかどうかはどうでもいいことだろう。ダイアログにおいて言葉がいかに身体化されるか…。