錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

やっと、やっと、、、「死の棘」のビデオを見る。見て、考える。

やっと、やっと、、、小栗康平監督の映画「死の棘」のビデオを見る。


原作の島尾敏雄の小説を読んでいるせいか、けっこう忠実にやってるのね、、、が第一感想。ありがちだけど、原作を先に読んでると映画が、、、映画を最初に見てると原作は、、、ということが今回も起きる。それでも、こんな音楽(音)を使っているのか、、、こういうビジュアルにしたか、、、(文字では書いてなかったものを)こんなふうに「処理」したのか、、、とか、いろいろ思う。
たんに見るのではなくて、芝居のネタというか、それをもとに稽古をはじめてみよう、みたいなノリだから、かなり慎重に見た。あまり影響を受けるのはホントよくないし。


そもそも、これでできるのか、と。
同時に、やれるとしてもかなり変容せざるをえないな、と。


でも、いつも「元」はあって、だけど客には(役者にも?)あまり理解されず、(それは俺がテキストを韜晦しているところも大きいと思うんだけど、)今回はいままでとはちがって底でつながることを目指しているから、かなり詰めて考えないといけない。「底つながり」はいつも口では言っているけれど、最終局面ではそれよりも優先してしまうもの(役者の身体)があった。今回、優先順位を変えようとは思わないけれど、稽古初期では(初期からは)そこをつねに意識したいな、と。
役になりきるなんてできないけれど、そのなりきれないことを引き受けようとしないところに演劇をやる価値なんてあるのか、と。で、そんなならばこれまでの演劇(「新劇」?)とどこがちがうのか、ということも明瞭化・具体化しないといけないな、と。
もちろん、自主稽古との整合性の問題もある。
(いま思い出した。変な話だけど、俺が演出めいたことをして、もっとも通底できていたのは02年の「ハムレットマシーン」をベースとした「HITBOL」だったかもしれない。あれはラストに無理矢理強制的劇中劇として「採用」したから、それが結果的にうまくいったのかもしれない。というより設定としては、リビングシアターの「営倉」=牢獄の中の囚人、だったから、それが嘘・乖離を呼び込まなかったのかもしれない、、、。)


改めて、妄想(もうひとつの現実)ということを思う。ティム・オブライエンの「カチアートを追跡して」で、カチアートが現実的には死んでいることと、謎でバカげた逃避行を敢行することのあいだ、みたいのもの。両者は折り合わない。だけど、両者は同一(別の世界の、かもしれないけれど)である。役があって役者本人がいるのではなく、両極端の(まったくちがう)2面性を持つ同じ人間がそこに(舞台上に)現実的にいる、ということ。
自分のことのみにしか拘泥できないのに、(自分のことだけで精一杯で自分のことしか考えられないのに、)それが自分でない誰かにつながってしまう(かもしれない)ということ。世界は自分のなかにあるんだし、だけど同時に、自分のなかだけでは済まないというものが世界であるということ。
痛みや喜びを説明・代弁してみせるのではなくて、それが(嘘として、虚構として、演劇として)舞台という「生の現実」で役者たちによって実際に生きられるということ。関係的に。個人の無意識や抱える問題の発露ではなく、関係的なもの。ズレルもの。、、、自分の問題が、ほかの人と(意に沿わないかたちで)通底してしまうということ。それはあくまで「結果的に」であって、それをもくろむからそうなるのではないこと。つまり「悲劇」の問題であること。それを悲劇的にでなく(説明的に、でなく)喜劇的に・即物的に具現化・明瞭化すること。


日記的話。
・「死の棘」を見る勇気がでなくて「時効警察」と「タモリ倶楽部」なんかを見た。「時効警察」はあんまり出来がよくなかった。
・そうそう、「紅の豚」も少し見た。山田太一のドラマ(渡辺謙が主演)も少しだけ見た。「豚」は何度も見てるけど、いい。山田ドラマも悪くなかった、見たのはラストのほうだけなんだけど。渡辺謙の顔がよかったのかもしれない。
(こう書いてると、テレビ漬けだなあ。つーか、「死の棘」を前にして、ためらっていたからか、、、。)
・一日中、雨だった。かなりの。気温も低かった。最近、暑かったから、とくに涼しく感じた。