錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

劇団「野戦の月」観劇。

京王線八幡山から徒歩5分ほど、甲州街道と環八の交差点付近の「空き地」に建てられたテント。この場所、80年代から、ある意味「テントのメッカ」となっていた。東京都が公共の場所をいっさい貸さなくなったことが大きいんだけど。


芝居については、実はいろいろ思うこと(これでいいんかよー、みたいな)もある。古くからの知人が多く関わっていることもあるし。ただ、俯瞰して見てみると、古くから(役者で)やっている人はけっこう少ない。それも関係しているんだろうけれど、芝居が「かつて」とはだいぶちがっていると思った。(ま、そりゃそうなんだけど、、、。)


作・演出・役者の代表者?桜井大造ばかりがめだつ。ほかの人はあまり前面に見えない。それは芝居としてはマイナスに働いている。けれどそれは「桜井ばかりがむばっている」というより(もちろんそれもあるんだろうけれど)桜井を中心とした集団総体の問題のように思う。
彼らの肝は「いま」どこにあるのか、、、。


春に台湾で台湾の人間による台湾版の公演し、秋には北京で台湾版と日本版を上演するという。
いつにましての「力業」だ。
「おー、やるなー」という感慨しかない。その展開力・実行力にはホント脱帽しかない、といってもいい。
北京でのなにが「成功」かはわからないけれど、ぜひとも成功を祈りたい。


桜井は「これは台湾からはじまった」と言っていた。それが日本の問題とズレテイルとも、、、。しかし、だから、、、。なかなかうまく言えない。
そもそも、表現なんて表現そのもので自立しているものではさらさらない。(まあ、裏腹なんだけど。)きつい現場を選択しつづけることには「そのもの」自体を変えていく要素が含まれている。彼らには(昔から)その要素がある。
いま、新小岩劇場というちいさいスペースを維持することに汲々となっている自分を感じながら、「これもまたきつい現場なんだよ、わからん奴にはわからんと思うけどよ」と悪態をつきつつ、表現自体を変えていく要素を新小岩劇場が持たにゃあかんな、と強く思う。