錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

いよいよ初日。

いよいよ初日、。
怒濤というだけではすまぬ地獄の日々を越えて、昨夜ゲネプロを終える。ザザに泊まることもあるが、それ以外ほぼ毎日往復する浦和・新小岩の電車のなかで、いろいろ考える。その時間は私にとってかなり大事。近くに住めばいろいろ便利なのだけれど、スキマというか、、むむ。近くにいたら、たぶん、ホントにともに朽ち果てて、しまうかも、という恐怖。


浦和・新小岩のあいだに電車では3つのそこそこ大きな川を越える。荒川、隅田川、そしてまた荒川。川口・赤羽間にある荒川鉄橋を越えるとき、いつも東アジア反日武装戦線のことを思い出す。40数年前の夏に、あいつらはここに爆弾を仕掛け損ねたんだったよな、。「終戦」の前日のことだから、いまと同じ、8月。
タグタスの決起集会(高円寺での公演を含む一連のイベント)「百年の大逆」で、それを扱って以来、何度か彼らについて演劇でやったり語ったりしているのだけど、荒川鉄橋を渡るとき、いつも複雑な気持ちになる。1人は小菅にある拘置所でいまも死刑の執行を待っているから。


照明機材なんかを運ぶときには、浦和・新小岩では川は渡らない。むしろ荒川沿いに走る。電車ではわからないけど、浦和も新小岩も荒川の少し東にある川沿いの街。その途中に、小菅の拘置所がある。高速道路から見る刑務所は未来都市のよう。もっともたいてい運転してるから、チラとしか見ないのだけれど。


怒濤のゴミのような時間を越えると、なんのためにこんなことやってんだ?という言葉が浮かんでこずにはいられない。少なくとも食うためではない。(食うため=生きるための職業にすればよかったか、と最近少し思う。)褒められたいからでもない。(イヤミな言い方たけど、多くの「表現者」は褒められたいように見える。たぶんそれは正当だ。)


たぶん、爆発させられなかった荒川鉄橋上の爆弾を仕掛けている、、ようなものなのだ、私にとって演劇(芸術)は。彼らは仕掛け損ねたあと、丸の内でヤラカス。そして、いま、その罰を受けている。私も罰を受けるべきなんだと思う。


、、、みたいな(ゴミのような)思考と、奇蹟のような事務的想像力発揮の場所として、浦和・新小岩間の電車はある。これを書いてるのも、初日に向かう電車のなか。


あー、そろそろ新小岩の手前の荒川だ、。きのうはこの橋を通過するとき「虹」を見た。


みなさま、結集くださいませませ。