錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

街(買い物)とホラーと「紋切型」と「正論」と芸術。

灯油の値段がまたあがってたよー。
1360って高くない?


土曜も仕事ざんまい。
なので、近所の神社に「鳥」の破魔矢を納めにいこうとしたが、かなわず。
これ、明日でも(7日以降でも)いいんだろか、、、。


昨年の「悲劇!」により、不足している上着を探して、
(それほど気に入ったわけではないんだけど)無理やり買って、
靴はいいの見つからず、自棄になり、ネットで注文。
あちゃー。


CATVでホラー映画を見ようとしたけどタイミングあわず。
少し残念。
(世界はホラーなんだ、と改めて思うこと多し。)
なのに、一瞬だけど「スラムダンク」見て、涙ぐむ。
(昨夜は「るろうに剣心」。)
、、、俺はいったいなんなんだろう、、、。


シアターアーツをトイレで読んでいる。
「人はいったい何を求めて演劇をみているんだろう」としばし考える。
芝居は金と暇を持つ人の、(ある種)知的な娯楽なんだよなー、結局。
でも、俺が芝居にかかわっているのはそういう文脈じゃない、、、。


ポール・オースター「偶然の音楽」の再読、進める。
論理的でない、円環的でない「もののあり方」について、きちんと考えよう。
そして、「正論」について、も。
あんど、演劇におけるスペクタクル性についても。
(演劇をみる人は「演劇におけるスペクタクル性」について「うぶ」過ぎる。本当の、というと嫌みな言い方になるけれど、スペクタクルはセノグラフィや過激な舞台転換や物語の奇形さに宿るのではない。紋切型のものがそのまま起きてしまうということにこそ、、、そんな「演技=舞台上の実存」にこそ、それは宿る。すべてのもとはそこにある。)
ふー。
少なくとも「偶然の音楽」というお話はスペクタクルではない。
オースターがベケットに関心がないわけがない。


正しくないこと(意味のわからないこと)をしてしまう、それが人間で、それが世界で、そこに踏み込まない芸術は「糞」にもならない。
世界をきちんと「解読してみせる」のは芸術の仕事じゃない。