錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

演技におけるイメージと実際、時効警察、幼稚園児殺害と夢。

仕事、それなりに進む。
家賃など、振り込みにいく。
今度、共演する人の絵が産経新聞に出てるというので、駅で買う。


夕方、稽古場へ。
照明をしてくれる方が来てくれ、打ち合わせ。
ま、あたりまえなんだけど、けっこう時間がかかる。
いろんな「進め方」というのはムツカシイし、いろいろ流派みたいなものはあるんだな、と再認識。
今回は時間が差し迫っていたため、打ち合わせの進行を俺がやってしまったけど、いなくとも、けっこうふつうに進むだろうな、と思った。
音オペがいない?、みたいな問題が発生したみたいだけど、、、。
(きょねんから、、、トラウマ?)


演技の話。
事前に台本を見ながらのイメージと実際にやってみることのギャップ。
些細なことだけど、「どんなふうに歩くか」とか、、、。
つい、意気込んでしまうのも悪い癖。
「純粋なドタバタ」にはクールさが必要。
あと、緩急。
言うまでもないけど「入り」が大事。
、、、けど、けっこうできない。
ま、セリフがたぐりよってきた気はする。
ステマチックに、クールに、そのうえでブチキレテ、、、。
短い芝居でも通して2度やるとホント疲れる。
よい徴候。


帰って、テレビをつけると「時効警察」。
シナリオのタッチや演出の雰囲気がいままでとまるでちがう。
そういえば「変わる」と言っていたような、、、。
、、、クレジット見たら「園しおん」(だったかな)だった。
やはし、、、。
俺的にはいままでのよりもずっと好き。
オダギリジョーファンには出番が少ないから、ややもの足らないかもしれない。
「群衆シーン」(たくさん人が出てくるシーン)が多いのがいい。
カット割りが多いのがいい。
一見、無駄なさまざまな小物がいい。
森口瑤子もよかった。
やはり「時効」というからには、それなりの「年齢」がないと説得力を持たないんだ、と改めて思う。


午前中、「幼稚園児が刺され、道端で発見」とのニュース。
昼には、クルマで子どもらの送り向かえをしていた同じ幼稚園の母親が逮捕、の速報。
つい、ネットを見てしまう。
頭、痛くなる、、、。
深夜近くに帰宅して、飯を食い、ついストーブの横でうとうとすると、夢を見る。
殺そうとしてる夢。
殺されそうになってる夢。
、、、4つつながりのサッシの鍵を閉めて、安全を図ろうとするのだけれど、何度やっても強くサッシを引くと開いてしまう。あせって、よくよく細部を見ながらサッシの鍵を閉めるのだけれど、ダメ。
あいだに柱のない構造のせいだ、と夢のなかで思う。でも、誰を怖れているのかわからないけど、すごく怖がってるからなんとかしようとする。けど、ダメ。
夢だ、また似たような夢だ、と思うけど、続きをみたい、成り行きを知りたいと思うので、寝続ける。そんな半分覚醒している奇妙な状態でも恐怖はちっとも減らない。
、、、はかばかして展開がないため、しかたなく起きる。
その間、正味1時間弱。


恐怖というのは想像力のことなんだ、と思う。
中上健次を読んでいても、そう思う。