錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

京都からの旅芝居、Unit856「仮寝鳩梦青虫」。

さて、4日と5日は北浦和の珈琲マチェックで、京都からの「Unit856」の芝居、「仮寝鳩梦青虫」が上演された。


これは役者3人のユニットらしく、5人でワゴンに乗って、旅芝居をしてる。
今回は半月ほどで11か所というんだから、ホント体力ある、根性ある。


メンバーは「魚人帝国」とか、テントで体力勝負の芝居をやっていた人が主軸みたいだから、その手のものを想像していたら真逆、、、。
ていねいで、きちんとしている物語でした。
(叛通信はテント系列の芝居とはまったくちがうけれど、ま、「はちゃめちゃ」だから、叛通信とも真逆で、こんな近い時間にこういうのを見て驚きでした。)


川崎落威さんが書いたという物語は落語からインスパイアされたということですが、途中に落語を閑話休題的に交えつつ(この言い方、誰かが言ってたののパクリ)、基本は2人の女のお話。
男に逃げられて、なお、その土地にとどまる女が、土地に居ついているらしい別の男を前にして(男は両方とも出ない)、ひとり語りをはじめる。貧しいこと、みんなこの土地から出ていってしまうこと、自分の人生が平凡で変化のない日常を過ごしていること、そして唯一楽しく思い出せる子どものころの思い出、、、。おそらく、舞台は南米あたり、土埃舞うところ。
さて、一瞬の暗転を経て、舞台は京都、自宅に引きこもっている女の子の部屋。女の子が変な?夢を見ている、という場面。つまり夢のなか。だから部屋だけど、外だし、開放的だし、話も急転直下する。夢から覚めたということになって、カーテンを少しだけ開けると、平凡な街並み、風がやや吹いていて、ゴミの収集場所があって、、、。リリカル。「引きこもり」というある意味で悲惨な感じはまったくない。(ところで「なぜ引きもってるか」には最後まで言及されない、ラストには窓を開けるという感動的っぽいシーンがあるのだけれど、芝居のなかでもウツウツと引きこもってる感じがしないので、社会問題としての引きこもりとはまったく接点がない。その役を引き受けた女優のせいもあるだろうし、物語として彼女を夢のなかで活動的に描くばかりで、引きこもりの現実をほぼ書かなかった作家もよる。けれど、その引きこもりの悲惨な現実と遠く離れていた女の子のありようが、この芝居の魅力、ある種の現実感につながっていると思う。)
この2人のひとり語りが2回ほど(3回?)続き、途中、リズムチェンジとして機能している落語が入り、そののち2人は出会う。具体的には女の部屋に女の子が紛れ込んでしまう。ちん入者にいらつく女とくったくのない女の子、2人はやがて心を通わせ始める、、、といったいわゆる感動もの。


実際、見ていて、映画みたいだなー、と思った。たとえば「バグダッド・カフェ」。男に捨てられた女2人がさびれたドライブインで出会い、そこを再生することで友情を深めていき、自らの生き方を再発見する話。
芝居では最終的には、女と女の子は擬似親子として「出会う」ことになるわけだけど、女の子の現実感のなさ(妖精風とでもいうのか)が、親子という枠組でなく(女が)救済されるというふうに見える。
そして、それは(作家の意図はどうにせよ)芝居としてはよい方向に(いい意味で「あまく、せつなく」)機能していた。
最後の手前の2人で手をとって踊るシーンとかはその典型、、、。


とはいえ(俺にとっては)いちばん印象に残り、いちばんうれしいシーンは物語の外側にあった。女の子が夢のなかで街を歩いていると、見かける人がみんな泣いている、というシーン。
京都弁だから「泣いてはる」というんだけど、「泣いてはる」のオンパレード。たとえば「なんだかわけわからなくなって、走って逃げて、やっと離れたと思って、ふと顔をあげると、そばの花屋のおばさんが、、、泣いてはるっ!」というのが延々と続く。これは笑えて、かつ、心に染みた。着物を着ているため、履き物は下駄、その下駄が舞台となっている木の床の上を走るときカッカッカッカッと鳴る音もよかった。
物語はよくできている。でも、、、。
おそらく、それは物語の強度の問題なんだと思う。よくはできている。けど、、、。
この線でいくならば、すぐれた例はたくさんある。それに追いつけ追い越せ、だと思う。


、、、と、こんなことを書きながら、ずっと思ってたのは、「物語」については感想を言いやすい、ということ。そして、たいがい(自分のコメントのことだけど)その感想は軽い。
実際、本は好きだし、物語は大好きなので、自分が芝居をやるときには「んなら本、読めよ」というようなものにはしない、といつも自らをけん制している。
もちろん、芝居はさまざまだ。
けど、「芝居ならでは」ということはあるだろう、と、、、。
「なぜ、わざわざ(手間・コストのかかる)芝居という方法を選択しているのか」と。


言い方を変えれば、叛通信の芝居にも物語はあるし(裏を手伝ったこともあり、台本も読んだ)、物語から芝居を語ることはできる。けど、その芝居を物語から語ることはできない。
それが悩みどころであり、(叛通信を語ろうとすると観念論的になりがちになるから)書くのに躊躇する要因ともなる。(ストアハウスカンパニーなんかも似ている。書こうとすると、観念的になってしまいそうで書きにくい、、、。)


錦鯉タッタには(たとえば、NIPONYENには)明確に物語がある。けれど、あまり客はそうは見ない。少なくとも「仮寝鳩梦青虫」と比べたら、(物語としては)わかりにくい。けれど、明確にある。
物語としてだけでなくいろいろな意味で「わかりやすさ」(交通可能性)というのはとても大切だと思う。
ただ、それをどんなふうに形づくるか。


あー、いろいろと勉強になるなー。
(などと言ってるうちに、、、とならぬようにせねば。)
ともあれ、「Unit856」のみなさん、お疲れさまでした。
実はこれを書いているのは10日なので、やっと京都に帰ったころでしょう。
旅してて充実している顔を見れたのはうれしかったし、かつ、とてもうらやましかった。
やっぱ、旅芝居、人といろんな局面で会うっていいやね。