錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

叛通信、公演終了。

叛通信の公演、無事に終了。


初日は仕掛けのミスなどなどもありましたが、2日めにはそれもなくなり、芝居も2日めは(演出のダメ出しのせいか)圧倒的によくなり、ま、万々歳の幕引きとなりました。
客も2日めはすごい風と雨だったのに、ずいぶん来たし、ほぼ目標の数が来たみたいで、俺としてはうらやましいやら、うらめしいやら、ははは。
ともあれ、役者・スタッフのみなさま、お疲れさまでした。


以下、初日直前に俺がいろいろと送った芝居案内メール。


劇団「叛通信」
「悲しみのダンス」
私が尊敬する「まともな演出家」の芝居です。
70年代に「ぴあ10」とかにも入ってたりする方です。
90年代はなぜか「わざとひっそりと」1ステージの秘密公演みたいにやってました。
ここ5年ほど、なりを潜めていたのですが「復活」したようです。

「これ、芝居なのー」って言われることがほとんどの、ちょっと変わった芝居です。
つい先日、「ストアハウスカンパニー」「OM2」(「自動焦点」とのコラボ?)を続けて観る機会がありました。双方ともに明確なスタイルがあり、いろいろと思うところがありました。それらとはまったくちがうかたちですが、「叛通信」も明確なスタイルを持つ芝居をします。かなり変わっているので、どなたにもよく見える、ということはないと思いますが、一見の価値あり、です。


以上のような、芝居の案内を送った者として(いくらスタッフとして手伝ったとしても)厳密に「今回はどうだったか」を書かねばならぬ、、、という責務感はある、、、のですが、まいどながら、いまはその気になれぬ、、、。
たぶん、じぶんごとと重なるからなんだろう。


ただ、「藤井健在」ということ、「健在以上ではなかった」ということ、「役者にかかる比率がわかってはいたが、高く、かつ不安定だ」ということ、「今回は役者それぞれの最高位ではないように見える」こと、などなど、、、、はある。


芝居の案内メールに「どなたにもよく見える、ということはない」と書いたが、それは一般的にいって価値だ。スタイルが明瞭で強固である、ということだから。けれど、多くの前衛芸術がそうであるように、スタイルが明瞭で強固であればそれだけでいい、ということにはならない。
好みではないが、どこか引っかかる、、、というふうに思わせることができなければ、そのスタイルの明瞭さと強固さはスキモノの内輪受けの範疇をでない。方法としては叛通信・藤井青は確立している。ただ、その深度が問われている。


プラス、物語構造とか、意味深なコンセプトではなく(実は物語やコンセプトは明瞭にあるのだけれど、舞台上でそれが顕在化することを藤井はあえて破棄している)、役者の身体のありようそのものを重視する方法は、演出と役者のプライベートな関係・役者の生理や気分やノリ、といったものに芝居のデキを大きく左右されてしまう。それは方法の構造的欠点だ。けれど、おそらく、あえてそんな方法を採用しているからこそ「当たれば奇跡」になるのだけれど、「当たらなかったとき」をどうするか、、、というのは大きな問題だと思う。100回やって1回当たればいい、とか、客の楽しみのために芝居なぞやってない、などと言ってもいい、おそらく藤井はそんなふうには考えてないだろうが。
芝居の上演とは何か?、という問題そのものとも関連する話だからいちがいに言えないけれど、そのあたりのことは改めて意識しなければいけないことだと思った。
それは前衛演劇一般、そしてわれわれ(錦鯉タッタ)とも別なかたちで関連している。


まー、ともあれ、お疲れさんでした。
マチェック界隈も再度のにぎわい見せてるみたいだし、、、いろいろ、これからですなー。