錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

なぜ読みあわせをするのか。あるいは「役」を請け負うことについて。

日曜の稽古についてメールを出す。
レスがある。
それに応えようと思う。ここに書く。
なぜ読みあわせをするのか、あるいは、読みあわせで思ったこと、について。


その前に、少し。
芝居で何が見たいのか。
あるいは、芝居の何が心をゆすぶるのか。


ずいぶん前に書いた文章なんだけど(手元にないし、いい加減に要約するけど)芝居の魅力とは(いろいろ要素はあるんだけど、本質的には俳優・役者の)「圧倒的な人間のありよう」とした覚えがある。つまり、俳優の存在感。こういうと「軽い」し「チャライなー」と思うけど、言葉にするとこうなる。
シアターアーツの最新号に「OM2」の真壁さんが、、、父から婚約者との結婚をとめられたときに兄はあられもなく吼えた、とめようとしたけどとめられなかった、世間体みたいのに自分はからめられてることに気付いた、あれは最初の演劇体験といってもよいかもしれない、そして早稲田新劇場の白石加世子の演技を見たときおんなじだと思った、いらないものをすべてとっぱらってそれでも残るものがわれわれにとって重要なもの、つまり裸形、、、みたいなことを書いていた。もちろん、芝居上ではただ叫べばいいなんてことはまったくない、という意味の言葉を続けて、、、。


大雑把なところでは、俺もまったく同じノリ。
以前、エイズで死んだパフォーマーについて書いたときもおんなじ。エイズがすごいわけでもなく、強烈な話題なんでもない。ただ、それをいう彼のありようの固執性・固有性だけが心をゆさぶる。
戦争も地雷も牢獄も死も、、、それ自体はたいしたことじゃない。それをどう受け取っているか。正確に言えば、それがどう受け取られざるをえないか、、、。


どうしようもない役者を見たい。
どうしよもなくうれしく、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく怒っていて、、、自分にはなんだか理解できないけれど「どうしようもない」ということだけは伝わってくる、、、みたいなのが見たい。
というより、そんなところからしか、人と人は(究極的には)関係していけないんじゃないか、と思っている。もちろん、そんな「究極」みたいなものばかりでは生きていけない。現実は、日常はもっと些細な出来事のつらなりだ。だけど、芝居だから、芸術だから、虚構だから(時間と空間を区切ってあるつくりものの世界だから)それが許される、と思う。そこでのみの限定だから、生きていける、、、というか。


さて、でも「どうしようもない」というのはなかなか訪れるもんじゃない。「らしく」つくるだけじゃ、どんなにうまい(技術がある人)でも、ダメ。だから、ふつうのお芝居のスタイルじゃないところから稽古をはじめようとしてる。台本を演じれば終わり、、、というのではないもの、、、。
で、自主稽古。
でも、それも諸刃の剣。
だって、「その人のただ(ちょっと)好き(嫌い)なもの」を見せられても、それは「どうしようもないもの」とはかけ離れてるでしょ?


それでも、何度も何度もやっていくうちに「もうやることないよ」「やりたいことなんてない」というところにたどりついて何かが出る(出てしまう)瞬間(の可能性)が自主稽古にはある。
究極の自主稽古って、ただ突っ立ってるだけ(動けない)というもんな気がするくらい。でもそれはもちろん「ただ突っ立って」いればよい、ということじゃない。


加えて、自主稽古って「ひとり」(自分)に完結する傾向がある。そこがよいところであるし、弱点。
「会話」とか「対話」なんて、芝居でよく言われてるけど(俺も言うけど)、そんなものカンタンに成り立ちやしねえよ、というのが率直な思い。でも、それを求めてる。自主稽古をやって、やって、、、それに加えて、、、。
やってみるとわかる(と思う)けど、絡み稽古は「ユルイ」。誰が悪い、というのではなく、構造としてそうなる。でも、それにはそれのよいところもある。でも、そこからは「どうしようもない関係」は出てこない。


で、読み合わせ。
ふう、やっと。
「役」を、他人を請け負うこと。そのうえで他人(別の「役」を請け負った人)と関係すること。
別に伝えたい物語があるのでもなく、物語(本筋)に奉仕せよ、というのでもない。
「役」なんか、誰でもすぐにできる。けど、「どうしようもなく役を受け入れる」のは並大抵じゃない。(こんなこと書いてるとスタニフなんたらスキーとか、ブレヒトとか、同化とか、異化とか、昔さんざん話したことを思い出す。俺はブレヒト派だし、異化派だけど、実はさんなこと関係ないんだよ、と思う。ブレヒトだ、異化だ、と言ってれば済むようなカンタンなものじゃないし、それは逆も同じだ。)
あんまし概念的になるのは嫌だけど、自分だって「自分」というものを請け負う限りにおいて自分なんだと思うし。
あと、台本は「約束」であり「ルール」だ。それを互いの基礎とすることで「危険でない・かつ・底がない」関係を持つ契機になる。


読み合わせとはまたちがうんだけど、俺は台本がきまってからがおもしろい(勝負だ)と思ってるところがある。ひとつのセリフを何度となく、何十回となく、しゃべる。しゃべる設定で立つ(動く)。何十回と(何百回と?)やってると「どうしようもなくなる」ことがある。自分の身体が身体でなくなり、その言葉がその言葉でなくなる。実際にふるえているかどうかはわからないけど、身体がふるえているのがわかる。時間が細分化され、空間が自分にとって都合よく変質する。何も見えないけど、すべてが見えている(わかっている)ような気になる。


もっと単純に、簡明な言い方ができればいいのにな、と思うが、、、。


どうしようもないものとしか(芝居では)つきあいたくない。
それは怖いし、うれしい。
絶望と、それを前提としての希望を与えてくれる。
「この人は俺が知ってるこの人じゃない」みたいなことを抜きにして芝居なんぞと関わっていられるだろうか。
「あたしはいままであたしだと思ってたあたしじゃない」という状態におののいている(狂喜乱舞している)人を見たい。やりたいことなんて何もなく、やりたくないことさえ何もなく、ただただ(どうしようもなく)「いる」人が見たい。
、、、そんなんになったら死んじゃうよ、、、そのとおりだと思う。だから芝居だ。嘘だ。虚構だ。約束事だ。そこでならば死なない。帰ってこれる、、、。
「どうしようもない」世界に落ちていくのを見届けて、かつ、現実に連れ戻すのが今回の俺の役目。つまり、見るだけ。演出、という役目があるとすれば、こんなことしか思い浮かばない。


質問に多少はこたえているだろうか、、、。