錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

「日本前衛舞台芸術者協会」準備会に向けて文章を書いた。

「日本前衛舞台芸術者協会」準備会に向けて文章を書いた。
現在の自分の心持ちをはっきりさせるために書いたところもあるので、ここに記載する。
(ここには載せられないが、複数人の文章を読んで、かなり刺激を受けた。いろいろと思うところがあった。)

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もっと別な、もっとよいよい世界(状況)がありえるはずだ、、、。

なによりこれが、わたしの演劇(芝居)に関わる際の契機です。具体的にいえば、昔、素人芝居で、役者がふだんにはない解放感を身体中にあふれだしているのを見て、ショックと喜びを感じたこと。稽古場でぐずぐずしていた身体が、ある稽古のある瞬間に、またはある本番の一瞬に、まったく別物として変現してしまうということ。そしてそれにより、関係が変容してしまうこと。あるいは、わたし自身がそれそのものを役者として体感してしまって、恐怖とともに驚愕と喜びに満ちてしまったということ。その個的でちいさな、けれども身体的で実感のある変貌は、きっと世界(状況)の変革へとつながっているはずだ、と。むしろ、世界が変わるとすれば制度的なことももちろんだけれど、こちらのほうが大きいのではないか、と。何年か前に長めの文章にしたことがありますが、だから、わたしの考える演劇はいうなれば「民衆演劇」でしかありえません。
少しわたくしごとにつきあってください。
黒テントなどを(大学に呼んだりして)間近に見ながら、そしてアングラ世代の書物を熱心に読みながら、でもなにかちがうと感じていたわれわれ(わたしは「劇団どくんご」というグループにいました)は、街頭劇、テント劇へと進んでいきました。当時「寄せ場」(日雇い労働者の集まるところ、東京でいえば「山谷」など)の運動や反天皇制連絡会議周辺の動きに関わっていたわれわれは、テント旅グループ「風の旅団」と親しくなり、それから多大な影響を受けつつ、それでも一定の距離をとりながら、テントでの旅芝居を模索し、88年の春に少人数での宣伝的野外芝居をカンパ制というかたちで全国規模でおこない、同じく秋にテントで全国を旅で芝居してまわりました。
そこで台本を書いていたわたしは、のちにまた「なにかちがう」と考え(主に俳優論みたいなものでした)、劇団を離れ、「叛通信」(昔の「多摩小劇場」)という劇団やいくつかの旅芝居で役者修行のようなものをおこない、90年代後半に現在の錦鯉タッタの前身となるプロジェクトをはじめました。こういった流れだったためか、自らの活動を「演劇業界」とは関係のないものと考えてきたと思います。あっちはあっち、こっちはこっち、とでもいうような。そんななかで、ハイナー・ミュラー・プロジェクトと出会い、本郷ドックでの集まりにちょこちょこ参加したり、「絶対演劇」の会合に顔を出したり、前衛と呼ばれるグループや踊りを見たりしていて、自分とは流儀はちがうけれど「商業演劇」(これ、現在では定義がむつかしいところがあると思いますが)には感じない魅力を文句を言いつつも感じ、少なからず影響を受けてきたと思います。そして、2002年に金沢でのハイナー・ミュラーフェスティバル(劇団での参加)、03年に東京ハイナー・ミュラー・ワールド(個人・役者としての参加)、04年に金沢でのハイナー・ミュラー・サミット(劇団での参加)に参加することになるわけですが、いまだテント旅アングラ系列の文化と人間関係のなかにいるわたしは、彼らから「おまえ、おしゃれで高尚なところに行こうとしてるらしいじゃないか」と軽い悪口を言われているくらいです。
現在の錦鯉タッタの上演は「おしゃれで高尚なところ」(外からはひとくくりに見られていると思います)とも離れているし、テント旅の系列のものとも離れていると思います。両者からは「こうもり」のように思われているのかもしれません。ただ、わたしは自分の関心を分けて考えていません。個別の差異にはもちろん関心を持っていますけれども。そもそも、アングラ(「状況劇場」と「天井桟敷」)の段階では区別がなかったといっていいと思います。「もっと別な、もっとよいよい世界(状況)がありえるはずだ」と考え、俳優の・関係の・世界の一瞬の変貌を期待する「民衆演劇派」のわたしとしては、そういった区別よりももっと現実的なこと(個別の差異)のみに関心があります。とはいえ、現在、お互いに「無視している・知らない」ことには残念でなりません。ただ、80年代には劇評家の西堂さんのレベルではつながっていたと思います。いま現在は、あっちもたこつぼ・こっちもたこつぼ、と化していると思います。そして、さらなるちいさなたこつぼにわれわれはいる、という認識です。
「もっと別な、もっとよいよい世界(状況)がありえるはず」、それを実現できるかどうかにこだわるのが前衛であり、その表現スタイルは多岐にわたるだろうけれど、強度のあるものはきっとつながっているはずだ、、、。そんな思いと感覚で「日本前衛舞台芸術者協会」に関わろうとしています。

具体的話をさらにいくつか。

・お互いが熱心に真剣にやっているのは誰を見てもわかります。ただ、たこつぼ化した状態のため、相互批評のようなものがあまりにもなさすぎる。同じたこつぼ内部のものに対してはあまりにも甘いし、精度が低すぎる。それは批評家レベルでも現場レベルでもそうだと思います。現場は(わたしもそうですが)あまりたくさんの上演を観られないというのが実情です。批評家は、あるところではあまりに権威があり、あねところではあまりにも脆弱で、整理してくれるという点ではありがたいけれど、不備なところが否めない。これはしかたがないところがあると思います。でも、わたしは厳しい批評が、特に現場の相互批評がほしい。この会に参加しているのはそれを求めて、というところがかなりあります。誤解があると嫌なので加えると、わたしは「たこつぼ・党派」を全否定しているわけではありません。人間、立とうと思ったら、そこはいずれにせよせまい場所しかありえませんから。また実際に「前衛」という言葉にひっかかって、この会に来ているわけですから。さらに余談になりますが加えると、前衛という言葉のイメージには、西堂さんが以前、著作の序文で書いていた次のようなものがあります。(これ、かなりちがっているかもしれません。)いわく「どうしようもなくつらい状態のなかでは、人はウェルメイドなわかりやすくあたたかい物語よりも、意味は不明でも鮮烈で心になにかひっかかるものにひかれるのではないか。カントールの「死の教室」を見てそう感じた」みたいなこと。わたしにとって前衛は、高度な哲学用語などで解析されるものではなく、体感されるべきものなんです。

・この会の設立意図には「基金」などの問題があると思います。ただ、前述したように、われわれにとってはそれはあまり関係がない。われわれは個別が労働した銭を供託しあって毎回芝居をつくっています。もちろん、フェスに参加させてもらうときもありますから、間接的には関係があることはわかっています。けれど、温度さはかなりある。また、つながっていないようでつながっていると思うので書くんですが、われわれは今年から新小岩の工場の2階に「稽古場・叩き場・フリースペース」を継続的に借りています。もちろん、それで食うのではなく、そこで緻密な稽古ができる拠点として考えています。ただ、開かれた場としたいし、現実的に経済的に使って・借りてもらえるとありがたい、という事情もあります。ある意味でドメスティックなスタイルを選んでいるわれわれが、どんなかたちでいろいろなところとつながっていけるのか、そこに大いに関心があります。