錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

仕事と「生きる」と芝居への妄想と、、、。

病院のほうはとりあえずだいじょぶだと判断する。
(まだまだ本人と洗濯物なんかの世話をする家族はたいへんだろうが。)


とりあえず、仕事に没頭する。というか、それしか考えないことにする。こんなときに限って、というか、仕事が来る来る、、、。
「24時間・仕事をする」をベースとして、1日を過ごす。(気分転換しないといけない瞬間なんかに少し走ったり、飽きると飯食ったり、、、する。)人とも会わないし、かなり「ひきこもり」状態。(意味がちがうんだろうけど。)
ただ電話なんかがかかってくると、自分でも驚くほどニコヤカな声。
仕事して、ネットして、少し走って、、、それ以外何もしない。というか、しないように心がける。、、、そうすると仕事は進む。つーか、そうしないと、仕事ははかどらない、、、。


ところで、「人生劇場」は、まあ、もっともマシな線に落ち着く。
ま、よかった、よかった。


さて、芝居(演劇)をする、とか、したいと思う、というのはどういうことなんだろう、、、と改めて思う。
芝居で食っていこうとしているわけではない。(むしろそれは避けている。)
日常を活性化させるための労働者(生活人)の趣味としてとらえているわけでもない。
芸術家して自らを捏造しようとも思わない。
芝居で食う(商業的に振るまい・娯楽として提供する)でも、芸術としての提示(これもある種の娯楽の提供だと思う)でもないのだとすると、、、、、ヤメヤメ、今日はノリも、筆の滑りも悪過ぎる。


ま、少なくとも、ここのタイトルにもある通り「演劇をすることから(自分を・関係を・世界を)考える(向かおうとする)」ということだけはたしかなように思う。
とすると、それは求道(修行)的なもの?
とすると、それは自分のため?
(ダメだダメだ、こんな思考回路だから「連赤」的なことばかりに取り憑かれるんだ、、、。)


心に「無」にして身体を動かすということに関心があるのは明らかで、とすると、「心を無にする」とはなにか、ということが問題となり、となれば「身体という制度・制度化されている身体(認識)」という現実を避けて通るわけにはいかないわけで、、、実際は「稽古をするという時間そのもの」のなかにそれを打開するなにか(きっかけ、のようなもの?)を見いだしているわけなんだけれど、そんな「うぶ」なノリでは長くは続けられない。


たのしくだけやってんじゃねーよ、と毒づくとともに、生きるために・考えるために・関係するために、必要なものなんだよ、、、みたいな言い方になってしまう。
でも、たのしさは関係おおありでしょーよ、、、。
、、、これ、永遠のループか?


ともあれ、思いはどうあれ、演劇は(ま、ほかのこともそうなんだけど)結果がすべて、なところがいいところ。というより、結果からすべてが見えるのがいいところ。
すなわち、いくら偉そうなことを言っていても、、、いくら手間暇かけたといっていても(それが事実だとしても)、、、おもしろくなければダメだ、と。
ちょっとした暇つぶしにはなる、とか、ちょっとしたお友達関係にはなれる、とか、知的満足感はあるぜよ、とか、、、みたいなのはあるにしても、、、そんなんじゃ、じぇんじぇんダメっしょっ!というのが正直な気分。


、、、うん? いったいなに書いてるんだ?
支離滅裂、プラス、、、、、もっと推敲してから(落ち着いて)書いたほうがいい。
、、、と思いつつ、とりあえずアップしてしまおう。
(あとで書き換えればいいや。、、、これがアダになったりするんだよな、、、。)