錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

マシーン、ブラックボックス。契約・約束・法・明文化。

自らの身体をマシーンと化す。
あるいは、ブラックボックス化する。


村上春樹の「世界の終わりとハードボイルとワンダーランド」という小説に、会計士(計算士、だったかな?)という職業が出てくる。名称とはちがって、彼は自らの身体をカラにし(無意識状態を意識的に構成して)、ある情報を変換して、身体そのもののなかに無意識的に蓄積させる。そして再度、転換して排出する。
いまやってる仕事は、これにちょっと似てる。あと、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」のデッキを扱う職業に。(あれはなんて名前の職業だったかな、、、。)
ある状態にして、数時間経つと、なにかが出てくる。そして、ひどく疲れている。
極度に頭を使ってるんだけど、使っていない、考えているわけじゃない。


ま、ともあれ、そんな仕事というものに没頭した一日。
たしかに進んだ。
くたびれた。こういうときは1日が24時間ではなくなる。もう何時間起き続けているんだろう。(その分、こわいくらい寝続けている時間もあるんだけれど、、、。)


ま(「ま」ばっかりだけど)、ものを書いているときも、役者として没頭しているときも「マシーン化」「ブラックボックス化」ということは生じてこざるをえない、、、。。
、、、そんなときは、けっこう消耗度が激しい、、、。


今度の土日に仙台からの舞踏家「西瓜」さんのソロが、北浦和の珈琲マチェックであるらしい。
土曜7時半、日曜5時。


独火星も秋にやるらしい。
「個々人の、やる根拠」っていうのは、古く、かつ、新しい問題だ。
人の「欲望」(幸せ)はどこにあるんだろう、、、錦鯉タッタの次の芝居はこの話を抜きにしたところにはない。そこをどう虚構としてエグレルか、、、そういうこと。


英国式、部分だけだけど、少し見直す。
三島由紀夫が部屋にあるはずなんだけど、見あたらない。
そうそう、きのう、アラバールの芝居を見たとメムバのひとりが言っていた。たまたま、手元にある。(「女中たち」といっしょに筑摩の全集に入ってる。)
読んでみよう。
聖書も。
、、、どれにもこれにも「契約」(約束)のことが記されているように思える。


ゲバ(殺人)を起こさせない関係を構築するためには「契約・約束・法・明文化」が必要だということ。ひとつの人種しかいない、というデマがはびこる日本ではわかりにくいかもしれないけれど。
「契約・約束・法・明文化」を交わすことによってのみ(それを構成しようとして関係することによってのみ)、他人が(ちがうものたちが)出会える契機を持つ。
「契約・約束・法・明文化」はお互いの差異を発見させ、自らを含む関係を変容させる可能性を持つ。
それが悲劇を産む場合が少なくないとしても。
あいまいで済まそうというのは「強者・支配者・権力者」の思考だ。責任を回避して、現在の地位にしがみつこうとする卑怯な態度だ。(「日本に生まれてぇー、日本人に生まれてぇー、よかったー」みたいな、、、。)
しかし、我ながら「卑怯」とは、、、なんて、役に立たない言い回しなんだろか。(もっとマシなの思いつかないんだろうか)。


そして、いま、25日の昼、起き続けているがゆえのフラフラの頭で一週間ぶんの日記を書いた。