錦鯉タッタR(yamadarei)が演劇から考える

錦鯉タッタの山田零が、演劇から考えるブログ

劇団どくんご「どいの」さんの、まともな批評・批判。ありがたい。

以下、劇団どくんご「どいの」さんのプログから転載。
読めばわかるけど、まともな批評・批判。
ありがたい、、、。
同時に、言いたい(議論したい)こともある。
、、、とてもいいことだ。
俺のコメントはそのうちに、、、。
以下、ありがたい「まともな」批評・批判。

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なんだ,なんだ,全然おもしろくないぞ。
繰り返しってつまんないないなぁ,というのがまず。自分事だからね(苦笑)。
でも,いやしかし,繰り返している内容自身がつまんないからだ,と考えることにした。
それに「繰り返される」こと自身が意味として面白いことはあり得ない。繰り返すということもそのことで見えてくるものが構想されてないとあかん,ということもある。2回目,適当にはしょられるだけじゃなぁ。「繰り返される」という記号でしかないよ。


駄目な役者も放置されてるし。これはもうあんまり言いたくもない。しかしふと,彼がたとえばANDにいたならばある役割もありそのままで光って見えるのではないか,という思いもある。ANDという方法論の方が,強い自意識だけがあり身体も声もまるで制御できない駄目な役者(ウザッ)に対して開かれているということにもなる。そこんとこ,なかなか面白く奥深いなと思いつつ。
牢獄ってのももういい加減にしてほしいという思いがある。牢獄,病院,学校ってのが演劇における近代世界の暗喩になってきた流れはあったしそれなりに必然性はあったと思うけど。
ひとつは内実としてそれを提示するにしてもモロ牢獄じゃあまりに工夫,知恵がないだろ,ということがある。第一実体としての牢獄なんて芝居として陰鬱だよ。まぁこれは趣味の範疇だけど,この世界の「牢獄」はたとえば昼夜なく明るいんじゃないの。


つまりどんな牢獄なのかという具体性がなさすぎる。ひとつ舞台左右に配置されている檻を想起させる鉄格子にしても,紐で吊られていたりしてぜんぜん頑丈そうじゃない。ちょいと手で押せばぶらんぶらんしそうな鉄格子って,要するに記号だろ。わたしたちの身体に迫ってこない記号,「ああ牢獄が表現されているんですね」。この世界は概ね牢獄っていうときに,「牢獄」はその時点ですでに暗喩なのであって,暗喩をそのまま舞台に上げることはできはしない。舞台に上げるときになんらかの具体性=身体感をともなっていないでどうする? 鉄格子はひとつの例だけど,一事が万事そんな調子,という印象。
歯磨きをする。それは繰り返される日常の営みの暗喩だ。だけど歯磨きという行為自身の奇矯さに注目されることがない。何かしらおもしろい行為として歯磨きを見せてもらえない。毎日納豆を食う。それもまた,納豆を食することそれ自身についての発見は何もない。上演主体にとって発見のないものをお客になにかワクワクして見ろったって無理。記号の羅列にすぎないとはそういうことだろう。


それにつけても歯磨き,食事,挨拶…。うーん,ネタ古すぎ!の印象をぬぐえない。ネタが古いということ自身,たとえば30年前の「牢獄」と今の「牢獄」の画期について考察されていないことの表れじゃないんだろうか。
かずみちゃんの棺桶からの生還はこの芝居ではゴドー登場がインクルードされてるということになってるんだろうけどなぁ。ゴドーが登場してもなおそれによって別の牢獄が出現するだけなんだってか。うーん。だからどうした,って感じッスよ。まずはゴドーの登場を熱烈に待ち望む身体感を獲得してから先の話だよね。


もうひとつ,どのように上手に/下手に表現されるにしろ「世界は概ね牢獄」というその枠組み自身に飽きた,ということもある。これはほんとに自分事で,困った困った。だからといって血沸き肉踊る物語世界にひとっとび!というのも見て見ぬふりの敵前逃亡に過ぎないと思え,なかなか見通しの明るい道筋は無いのが事実。
かずみちゃんのラストシーンは唯一の救いだった。
けど,この芝居でただひとり1シーンだけのがんばりで,けなげというか荷が重すぎるというか,切なかったなぁ。


芝居に腹を立てるというよりもしょんぼりする,気の毒な感じ。芝居中,駄目か駄目なのか,もう解散か,と何度も頭をよぎっちまったよ。
頼むぜ,期待してんだからさー。